伏見城時代、脇坂中務小輔安治の邸宅があったと伝えられる。脇坂氏の官職名「中務」が中国風には「中書」と呼ばれていたので、その名から島名がつけられた。
伏見廃城後は芦萩が生い茂る島となっていたが、元禄時代、時の伏見奉行であった建部匠頭政宇が再開発して、伏見の繁栄をもたらした。

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昭和初年にこの島の周囲をめぐる濠川の半分を埋め立てて住宅地として利用された。戦後「今富橋」から南部分が全面的に埋め立てられて島としての景観は失われた。
虚子の句に「花人の落ち合ふ駅や中書島」と詠まれ、京阪本線と京阪宇治線の分岐点でもある。