古事記や日本書紀によると、今から約二千七百年ほど甲寅の10月、五瀬命と盤余彦命(後の神武天皇)は、日向の地(九州)で、日出ずる大和への「東征」を決意し、乙卯三月には吉備国に入り、戊午二月、船団を出して浪速国へ。そして三月、河内国から龍田へ進軍、河内生駒山の孔舎衙坂の地で豪族長髄彦との戦いで激しい反撃に遭い、其の時、五瀬命が敵の流れ矢に当たって深手を負ってしまいました。『日に向かいて戦うは利あらず』と船で和泉灘を山城水門まで下ってきた時、矢傷思わしくなく、手当ての場を求めて上陸し、城の崎と呼ばれた山麓の岩壁から下垂り落ちる石清水で傷を洗い癒やしたこの地が「山の井遺蹟」と伝えられている。

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この遺蹟に残された古びた井戸の側に古碑があり、「山の井」と記されたその両側に、
藤原光俊   山のゐのみなとはなれて行く船の あかても人にぬるるそてかな
豊岡尚資   山のゐのみなとを今のたるゐとは むかしわすれぬ人もこそしれ
                                      の和歌二首が刻まれていたようです。

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昔の樽井台地は断崖をなし、古木茂る丘の裾から自然に清らかな泉が湧き出でて、樽井の地名はこの泉の『垂井』からといわれ、また、『山城水門』の名も樽井の台地を海岸から眺めると城塁のように屹立し、山城のようであったことから付けられたといわれる。