大阪府泉南市信達地区は工場が集中立地する石綿紡織産業の中心地で、戦前「いしわた村」と呼ばれた。
一世紀にわたり生産が続いた結果、地方出身者や在日コリアンを含む労働者、事業主、家族、周辺住民に石綿被害が多発した。
泉南石綿産業100年の歴史は、石綿被害100年の歴史でもあった。しかし、その被害は埋没し、自覚されることもないまま拡大した。
国は、1937年から実施した大規模な実態調査や戦後の継続調査によって、当地の深刻な被害の実情を早くから知っていた。地元にも警告を発し続けた医師がいた。にもかかわらず国は、経済成長を優先し、有効な規制・対策を行わずこれを放置した。
2006年5月、被害者と遺族が国の責任を問う国家賠償訴訟に立ち上がった。裁判は粘り強く闘われ、敗訴判決による困難な局面にも遭遇したが、2014年10月9日、最高裁は我が国初めて石綿禍に対する国の責任を認める最終判断を下した。翌年1月には厚労大臣が来泉し原告らの前で謝罪した。
8年半に及んだ裁判の勝利を記念し、無告無念のうちに逝った者たちの鎮魂と、すべての石綿禍根絶の願いを込めて、石綿産業と被害の原点の地信達に「泉南石綿の碑」を建立した。

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      帰らぬ母に わたしは問いかける そこに花は咲いていますか 暗く小さな工場の中 白い
      塵が舞っていましたね 粉雪のように
      帰らぬ父と 帰らぬ夫に わたしは問いかける そこに陽はさしていますか 油で汚れた作業
      場で働きづめの日々でしたね 子供たちのために
      帰らぬ友に わたしは問いかける そこに風は吹いていますか せわしく行き交う シャトル
      の音 がんばりやの織り子さんでしたね なにも知らされずに
      遺されたわたしは誓う もう涙は流さないと いしわたの町に生まれ いしわたの町で育ち 
      わたしは今顔をあげて 五月の空へあるきはじめる