紀州街道は古くは熊野街道とも呼ばれ、信達宿はおよそ900年前頃より、熊野詣で賑わっていました。特に市場村は、白河上皇以降、歴代上皇の宿舎が置かれたところから信達荘御所村とも呼ばれていました。後鳥羽上皇が熊野詣をされた建仁元年(1201)十月、お供の歌人、藤原定家の日記「後鳥羽院熊野行幸記」にも、往きの七日、帰りの二十四日、信達宿に宿泊したという一文があります。

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紀州公は、参勤交代の折には、約1500人の供を連れ和歌山城を出立し、雄ノ山峠を越え、山中宿で昼休憩をとり、信達宿を目指しました。当時、山中宿の先には、琵琶ケ崖という、街道一の難所があり、そこは十数メートル下に山中川が流れる、断崖絶壁の細道でその昔、琵琶法師が、足を踏み外して谷に落ち、それ以来、琵琶の音が、谷底から不気味に聞こえてくる為その名がついています。

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江戸時代になり、徳川幕府により、伝馬宿駅制度が整備されて参勤交代制度が確立されると主要な宿場に本陣と人馬問屋が置かれました。本陣とは元は戦の時に大将が詰める本営の事でしたが、以後は大名、公家、幕府の役人、僧侶等の貴人の宿舎となりました。五街道の主要な宿場には、宿泊本陣が置かれ他に休息専用の本陣もありました。脇街道の紀州街道は、信達宿市場村と貝狃百蠕寺に宿泊本陣が山中宿と助松宿に休憩本陣があり、千坪以上の屋敷地に御成門、式台玄関、上段の間等の格式を備えた建物がありました。

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敷地は間口二十七間、奥行き三十九間で、千四十三坪あり、建坪も二百五十坪ありました。江戸時代は除地(官地)とされ、年貢は免除されていました。長屋門は当時(江戸時代)のままですが主屋は明治23年に建て直されています。