知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

社会

郵便箱

明治4年に設置された日本最初のポストは「書状集め箱」と呼ばれ、その後、木製黒塗り「郵便箱」になり、明治34年鉄製赤色「俵谷式ポスト」が考案されました。

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その後、「丸型庇付ポスト」を経て、昭和24年から、「郵便差出箱一号丸型ポスト」となり、赤いポストとして親しまれ、今日、郵便取り扱い数量の増加、郵便物の大型化に伴い郵便ポストも大型化しました。

寺ヶ池

古来より河内地方の農業は溜池灌漑水利が多く、寺ヶ池も百姓の切なる領に依り近世初期、奥の池と共に築造されて半田村の農業生活上に意義深いものがあった。
しかし、多年の間に土砂の埋没が甚しくなり、元禄年間・文政年間に大修築がなされ、その灌漑面積は八百余石に及んだ。近年に至り、堤の補強工事がなされ貯水量が増し、池水は三ヶ所の樋尻から分水され各自の田に配水されて今尚多数の農地を潤している。

因みに、我が家の家庭菜園も距離があるが寺ヶ池から配水されていると聞いている。

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寺ヶ池の沿革
面積 約24000平方米
水深 約7米
所在地 大阪府富田林市寺池台 南海高野線金剛駅から約8分

老人が転倒

左の住宅から5メートルほど行ったところで両手にレジ袋を持った老人が突然倒れた。駆けつけて「大丈夫ですか」と尋ねると「大丈夫」と答えた。
正面の歩道橋の階段を上がって高野線を越えて10メートルも歩いたらスーパーがある、そこで買い物をして階段を上がれないのか20メ−トルほど歩いて踏切を渡ってここまで来たと話した。左の家の人が救急車を呼ぶより車で送った方が早いと言って車を持ってきて老人を乗せた。
老人は「情けない 情けない」と何度も言っていた。「生老病死」いかに生きるべきか、

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大型展望水門「びゅうお」

駿河湾は、伊豆半島をのせたフィリピン海プレートが本州の下に沈み込むことでできた、日本で最も深い湾です。この深い海ではさまざまな海の幸が得られる一方、プレートの沈み込みによって過去何度も大きな地震が繰り返されてきました。こうした地震にともなう津波から、狩野川河口の低地に広がる沼津のまちを守るために、この大型水門が造られました。

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高さ30メートルの展望回廊からは、駿河湾はもちろん、ゆるやかな弧を描く千本浜や、富士山や箱根などの火山、伊豆の山々など360°の眺望を楽しむことができます。晴れた日には遠く南アルプスの山々も見渡せます。

伊勢河崎町並み(その弐)

東国と西国の多くの人が往来するターミナル的な商業都市でもあり、戦国時代末期には既に物流と金融の中心地域でした。江戸時代には山田奉行より伊勢神宮周辺地域の米と魚の卸売り専売権を認められ、名実共に「伊勢の台所」として全国に知られた商人町となりました。

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伊勢河崎町並み(その壱)

16世紀頃から伊勢神宮門前町の山田・宇治への物資を運ぶために勢田川を利用した水上輸送と物資を荷揚げして人馬で物資を送る陸上輸送を仲介する川の港として賑わった河崎、

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伊勢河崎

河崎は勢田川の水運を利用して、戦国時代初期から町としての機能を整え安土桃山時代に伊勢神宮周辺の経済の中心として位置づけられ、江戸時代には大きな問屋街へと発展し、おかげ参りに代表される参宮客で賑わう宇治・山田に大量の生活物資を供給する伊勢の台所としての役割を果たしていました。

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旧五十一銀行

明治初めに全国に作られた国立銀行、設立順に一番から百五十三番まで存在したことからナンバー銀行とも呼ばれた。

旧五十一銀行

1878年に設立された五十一銀行は当時木造民家風の建物であった。上記写真は1923年煉瓦造りで立替されたものである。
昭和に入り合併(和泉銀行、寺田銀行、岸和田銀行)に合併(富田林銀行、辻林銀行)を重ね現在は住友銀行となっている。

通天閣今昔

初代通天閣は1943年に火災で焼け落ち、現在の通天閣は1956年完成の2代目通天閣、

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初代通天閣の有った場所には既に民家が建ち並んでおり、ほど近い公園に再建された。

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天王寺界隈


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路地裏にて

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新世界界隈

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