知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

旧跡

木戸門跡

千種川に架かる旧坂越橋を渡ります。

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高瀬舟船着場跡
江戸時代、塩田から運ばれた塩が、ここで大八車に積み替えられ坂越港に運ばれました。

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道標

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木戸門跡
廻船業で栄えていた頃、町を守るため朝開き、夕べには閉じる門番がいました。

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港の入り口として、木で作られた門がありました。港では大きな帆船(廻船)が積荷の到着を待ち、たくさんの荷車が、塩や米などを積んでこの門を通っていきました。

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門の大きさは、幅が約4メートル、高さが約2メートルでした。

所在地: 兵庫県赤穂市坂越

三宝院(醍醐寺)

永久三年(1115)、醍醐寺第14世座主により創建、現在の三宝院は慶長三年(1598)豊臣秀吉により再建されたもので、唐門や表書院は国宝に、その他の建造物は大半が国の重要文化財に指定されている。

 唐門

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桃山時代を代表する秀吉設計の庭園は池泉回遊式と枯山水が折衷されている。

 玄関(大玄関と小玄関がある)

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豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」に倣って、毎年四月第二日曜日には「豊太閤花見行列」がおこなわれる。

備考 院内及び庭園は撮影禁止となっていて監視員がいる。

醍醐寺

京阪電車中書島駅から宇治線で六地蔵駅で下車して、駅前からバスで約15分醍醐寺前で降ります。

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真言宗醍醐派の総本山で、山上の上醍醐と山下の下醍醐から成る壮大な寺で天暦五年(951)に完成した京都府域最古の五重塔をはじめ、四万点に上がる多くの国宝や文化財を有している。

 総門

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応仁の乱や文明の乱により、五重塔を残してすべて焼失したが、慶長三年(1598)に豊臣秀吉が北政所らを醍醐の花見に誘ったことをきっかけに、秀吉の厚い帰依を受けて復興された。
本堂の金堂(国宝)は慶長四年(1599)に紀州湯浅の満願寺から移築したものといわれ、三宝院庭園(特別史跡及び特別名勝)は、華麗で豪華な桃山時代の庭園で秀吉の権勢をしのばせている。

 西大門

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掛川城大手門番所

大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ城内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所だった。
嘉永七年(1854)の大地震で倒壊し安政六年(1859)に再建されたのが現在の建物として残っている。

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大手門に付属する番所が現存するのは珍しく、1980年に市の文化財に指定された。

天誅組本陣遺趾

「天誅」は、そのとき暗殺者が叫んだ言葉で、「天」あるいは「天皇」に代わって誅(ころ)す、罰を与えるという意味合いで使われた。

天誅組は、代官所襲撃のあと交通の要地であった天辻峠に本陣を構えた。

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文久三年(1863)八月十七日、大和国五條の代官所が襲撃される事件が起こった。
天誅組の乱である。
襲撃したのは、土佐藩の吉村寅太郎、備中藩の藤本鉄石ら三十八名の天誅組で、この事件は幕末史における初の倒幕を意図した挙兵とされる。

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この地は鶴屋治兵衛の屋敷跡で天誅組の本陣が置かれた場所である。

吉野三郎の鐘

明治八年(1875)に、廃仏の難に遭って廃寺となった世尊寺には本尊と釣り鐘、石灯籠だけが残った。

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この釣り鐘が造られたのは保延六年(1140)で平忠盛が鵜飼千斤を施入した旨の銘があり、忠盛が平家全盛時代を築いた清盛の父であるだけに当時のあつい信仰の様子が偲ばれる。

この三郎鐘は、永暦元年(1160)と寛元三年(1245)に改鋳されている。

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旧中畑陣屋(県指定重要文化財)

この陣屋は、天保年間、旗本松平氏代官陣屋として創設された。

木造平屋建、寄棟、かや葺、玄関唐破風付

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母屋は簡素ながら床・棚・書院などを初め、次の間・玄関式台に至るまで書院造の形態をよく示し、二つの座敷の配列などに若干数寄屋風加味するなど、さす組、かや葺や勝手土間などには地域農民住居の手法も残している。

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西白河郡矢吹町中畑にあったが昭和49年に現在地に移築復元した。

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所在地 福島県会津若松市東山町大字石山字院内一番地

宇陀松山城跡(秋山城・神楽岡城)

宇陀松山城は、宇陀郡を領分する宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として山城を築いたのに始まる

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1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い大和郡山城、高取城、秋山城の三城により支配体制を強める。以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親らの居城となり改修が行われ近世城郭へと移行していった。

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所在地 奈良県宇陀市大宇陀松山地区春日古城山

春日神社入り口付近から暫くは遊歩道が整備され、ゆっくり歩いても15分位で城跡に着く。

上り立ち門(宇和島城)

宇和島城の城門の一つで搦手口から城への登り口に位置している。建築様式は薬医門形式の切妻、本瓦葺きで丸瓦には伊達家の九曜の紋がついている。

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諸矢倉、追手門、搦手門などの失われた今日において、上り立ち門は天守閣とともに宇和島城の大切な遺構となっている。

山里倉庫

この建物は旧宇和島城内の調練場の一廓にあって武器庫に使用されていた。伊達家八代藩主宗城の時代に建造された。
旧城内唯一の遺構である。

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建造年代 1845年(弘化二年)   構造形式 木造切妻造り
面積    六九.二九坪        解体移築 昭和四十二年八月
現在は郷土資料館として資料、民具類を展示している。

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私が訪れた時には担当者が常駐しており丁寧な説明を受けた。
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