知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

旧跡

松江の武家屋敷

この屋敷は松江藩の六百石程度の中級武士が住んだところで、家族の部屋は天井も低く造りも質素なものとなっている。

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 湯殿

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 台所

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松江の武家屋敷

母屋の建坪はおよそ七十坪で、客が迎えられる式台玄関から座敷に至る部屋と裏側の私生活の部屋は造りも材料も区別して武家の公私別を示している。

客が入る式台玄関と家族などが使う内玄関がある。

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座敷は邸内で最も立派な部屋

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座敷前の庭園

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打ち込み接(松江城石垣)

島根県庁は観光客に土日祭は駐車場を開放している、全ての駐車場ではないので要注意。

松江城の石垣は、「野面積み」と「打ち込み接」(全体の6割)という石積み手法で城は5年で完成したが、そのうちの3年を石垣に費やしたといわれている。

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※ 野面積・・・自然石や割石を積む方法
※ 打ち込み接(はぎ)・・・石切り場で切り出した石の平坦な面の角を加工し合わせやすくした積み方

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石に刻まれた刻印は堀尾家の紋で、工事の分担や石切場の区、別合わせ印など土木工事を円滑組織的に行うために付けられた記号と考えられるとしている。

塩見縄手

初代出雲藩主堀尾吉晴が1607年から1611年にかけて松江城築城の際に城地の亀田山と北側の赤山の中間にあった宇賀山を掘削して、内堀と平行する道路および侍屋敷を造成した。

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この道路が塩見縄手と呼ばれる。縄手とは縄のように一筋にのびた道路のことをいい、二百石から六百石程度の中級武士の屋敷が並んでいた。

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この武家屋敷に一時住んでいた塩見小兵衛がのちに異例の栄進をしたため、それをたたえて塩見縄手と呼ぶようになった。

松江市伝統美観保存地区に指定され、昭和62年には建設省「日本の道100撰」に選ばれる。

北惣門橋(松江城)

 北惣門橋は内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路であった。

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明治時代に石造りのアーチ橋に変わり「眼鏡橋」と呼ばれていたが、史跡にふさわしい木橋とするために橋下の発掘調査や絵図・文献資料を検討して現在の橋が復元完成した。

武家屋敷表門


かつては鳥取城の堀端にあった藩士箕浦近江家(二千石)の表門、1936年には鳥取師範学校の校門として移築された。
市内で唯一残り鳥取が城下町であったことを示す貴重な建物、

箕浦家武家門

入母屋、桟瓦葺、塗屋造、白漆喰仕上げで、腰壁は海鼠壁、所謂長屋門形式となり上級武士屋敷の格式を備えている。

箕浦家武家門

高野の伽藍(その五)

金輪塔
二間半四面の宝塔 1046年以後1108年以前 現在の塔は1834年に再建

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興福寺五重塔(国宝)

730年(天平2年)光明皇后が建立、5回の被災・再建を経て1426年(応永33年)頃再建、高さ50.1メートル、本瓦葺きの塔、軒の出が深く奈良時代の特徴を随所に残している。

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約1300年もの昔、これだけの塔をよく建てたものだ。すごい技術だが、この建築技術は大陸からのものだろうか。
地震、強風に耐え、被災の多くは落雷ではないのだろうか。今、この塔を建てれば建設費はどのくらいだろう。

三重塔があった

13時を過ぎていただろうか、昼食にしようと階段を上ると三重塔を偶然見つけた。
興福寺に三重塔があったのだ。

現代、興福寺では境内整備計画で工事が行われている。
1143年(康治2年)に崇徳天皇の中宮が創建され、北円堂と共に興福寺最古の建物、

 【興福寺三重塔】

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雪中行軍遭難記念碑


明治35年1月23日、陸軍歩兵大尉−神成文吉率いる二百十名はこの八甲田の地を通過して八戸平野に上陸するロシア軍を三本木平野で迎え撃つという想定のもとに陸軍基地を出発した。

 遭難の地

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その途上において猛吹雪に遭い、三昼夜にわたり孤立し辛うじて救助された者がわずか十七名、百九十三名が凍死した。

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  後藤房之助伍長像
















この惨状を連隊に報告するべく、指揮官神成大尉の命を受けた後藤房之助伍長が出発し、二十七日正午豪雪のなか仮死状態のまま佇立しているところを捜索隊に発見された。

村上其一軍医の手当てにより十一分後に蘇生し、かすかな声により遭難のあらましが明らかになった。
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