知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

思い出

東京駅

東京へ初めて行ったのは卒業旅行であった。東京の記憶は薄いが二重橋で記念写真を撮ったことぐらいか。
鎌倉や東京で担任の先生に沢山の写真を撮って貰ったが当時はフイルムのカメラで何を失敗したのかわからないがあまり残っていない。
東京駅は東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、特に東海道新幹線と東北新幹線の起点となっており、東海道本線や東北本線など主要幹線の起点駅でもある。

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東京駅の歴史
1889年(明治22)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。
日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41)から建設工事が本格化し、1914年(大正3)12月20日に開業した。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、「東京駅」と名付けられた。
1919年(大正8)3月1日に中央本線が、1925年(大正14年)11月1日に東北本線が乗り入れ、1929年(昭和4)12月16日には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展していった。
1964年10月1日に東海道新幹線が開業し、1972年7月15日には総武地下ホーム、1990年3月10日には京葉地下ホームがそれぞれ営業を開始、1991年6月20日には東北新幹線が当駅に乗り入れるなど、東京駅は順次拡大してきた。

長らく先延ばしされてきた建て替え計画は、1999年から2000年にかけて、創建当初の形態に復原する方針がまとめられ、500億円とされた復原工事の費用を丸の内地区の高層ビルへの容積率の移転という形で捻出することで、丸の内地区の高層ビル建て替え事業と並行して、東京駅の復原工事が行われることとなった。
復原工事自体は、2007年5月30日に起工され、2012年10月1日に完成した。

身延山山頂展望台

身延山久遠寺総門

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樋澤坊の門

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身延山ロープウェイ奥之院駅

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「関東の富士見百景」に選定されている身延山山頂展望台(1153)からは世界遺産の富士山・駿河湾・南アルプス・八ヶ岳連峰・七面山など自然が織りなす絶景が満喫できます。

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身延山山頂からは、春と秋の数日「ダイヤモンド富士」を見ることができます。

日本の渚百選

牛臥山が「ひよっこりひょうたん島」そっくりに見えます。

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牛臥山

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日本の渚百選
牛臥・島郷・志下海岸
平成8年7月「海の記念日」制定にちなみ、全国から応募された渚の中から優秀な百箇所が選ばれたものです。

麦飯

私達が三重県の山奥から大阪に引っ越して来たのは私が小学二年生の時だった。父から「窓を開ければ電車が見える」と聞いて兄妹で喜んだものでした。

私達の家は高台にあり、この暗渠の上を電車が通っている、窓を開ければ電車が見えて白い特急が通るときは「白電車」といって喜んだ。近隣は農家が多く、この暗渠の両側が一面の田圃であった。

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当時、我が家は大変貧しかった。かといって父が怠け者ではなく良く働く人だったが毎日が麦飯だった。年に2回は白いご飯が炊かれた。私は何度も白いご飯と鰹節があれば何も要らないと思ったものでした。

4年生になったある日、私の右前に座っていた女の子が弁当を床にひっくり返した。普段から左手と頭で弁当を隠して食べていた。麦飯だった。学校からかなり離れた山の中腹に家がある静かな女の子だった。

私は何といっても男の子だったから麦飯は平気に食べていたが子供心にも「かわいそう」と思った。恥ずかしかっただろうと思った。

当時の麦飯は炊きたてはまだしも冷たくなると不味かった。今の麦はあの頃の麦とは比べものにならいくらい美味しい。また、麦を少し入れると体にも良いと聞いている。

太満池

現在の太満池(たいまいけ)はフェンスや鉄柵で囲まれているが、私が子供の頃は柵などあろうはずもなく、この池でも泳いでいた。

一面水草に覆われているが当時は中程に浮いていた。しかし、水草は根が長く伸びている。
水草が足に絡まって死亡した子供がいることを聞いていたが私も絡まったことがある。

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幸いにして事なきを得たが一つ間違えれば人生が終わっていたに違いない。それ以来は太満池で泳いだ記憶がない。
今は水質も悪くなり泳げないが、当時はかなり下まで見えて隠れて泳ぐには(学校で遊泳禁止されていた)適当な池であった。

国道310号線

山の中腹を掘削して作られた国道、両側は土手が残っていて山となっていた。勿論、アスファルト舗装などなく地道であった。

電車の定期券は持っていたが雨の日以外はロードバイクで通っていた。帰りに、下の写真は現在高等学校、中学校になっているが当時は土手を駆け上り寝そべって夜空を眺めたものだった。

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夜空を眺めながら何を想い何を考えていたのか、何も記憶に残っていない。 が、来る日も来る日も登っていった記憶だけが残っている。

ぶらくり丁

紀州和歌山城の北東部に位置する「ぶらくり丁」、江戸時代から続く商店街、店先に商品をぶら下げていたことからぶらくり丁と呼ばれるようになったと云う。

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「ぶらくり丁」を東に歩くと、雑賀橋のたもとに「和歌山ブルース歌碑」がある。
写真を撮ろうと近づくとメロディーが流れた、センサーが人を感知してレコード盤を模した歌碑からメロディーが流れる仕組みになっている。

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昭和50年代にヒットした懐かしの歌謡曲「和歌山ブルース」

     作詞 吉川静夫  作曲 吉田正  歌 古都清乃

     逢いたい見たい すがりたい
     そんな気持ちに させるのは
     ぶらくり丁の   恋灯り
     真田堀なら    ネオン川
     和歌山泣きたい ああやるせない

長野新地

大阪府河内長野は、明治の末頃、高野鉄道が開通したことにより極楽寺温泉など観光地として賑わい、昭和に入ると石川沿いに長野新地ができたとの説明がある。

私が言い伝えにより聞いた話では高野鉄道建設には村人が多数協力している。河内長野駅から三日市町駅まで延長されたのは大正に入ってからだ。

職場の先輩から新地に連れって貰ったのはまだうら若き頃だったと記憶する。現在の河内長野駅東口から左に坂道を下ると右に降りる階段がある。

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この石川に架かる黄金橋(こがねばし)を渡ると長野新地があった。
道の両側には灯の付いた提灯が周りを照らし小料理屋が立ち並んでいた。


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三叉路を左に曲がった右に小料理屋はあった。
入り口を入ると正面にカウンターがあって左に個室が並んでいた。その個室でおばあさんが三味線を弾いてくれるのであった。

時代の流れかすべて住宅地となっていた。温泉宿は何軒か残っているようだ。

ジャンジャン横丁

ジャンッジャン横丁ともジャンジャン町ともいう。

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若い頃、この横丁を歩いた記憶がある。

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一部は工事中だったが、囲碁将棋クラブは2軒残っていた。

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信楽狸

学生の頃、図書館で「隠れた観光地」という本をみつけた。
その中に信楽があった。記憶はないが当時サイクリングをしていたので自転車で行ったと思われる。
今回で何度目になるのだろうか。

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信楽狸八相縁喜

笠   思はざる悪事災難避けるため用心常に身を守る笠
目   何事も前後左右に気を配り正しく見つむることな忘れめ
顔   世は広く互に愛想よく暮し真を以って務めはげまん
徳利  恵まれし飲食のみにこと足利て徳はひそかに我につけん
通   世渡りは先づ信用が第一ぞ活動常に四通八達
腹   もの事は常に落つきさりながら決断力の大胆をもて
金袋  金銭の宝は自由自在なる運用をなせ運用をなせ
尾   なに事も終りは大きくしっかりと身をたてるこそ真の幸福
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