知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

街道

升形跡(宿西入口)

宿場の出入り口には、「見付」と呼ばれた施設があり、もともとは城門の見張り施設のことを言いました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道の直角や鉤の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った桝形の見付もありました。

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島田宿の西入口は、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない升形の見付が設けられていました。
ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所とされている。

藤川宿脇本陣

「脇本陣」は江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きが無い時には本陣に準じて用いられていた。

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脇本陣を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜太夫」で「橘屋」と呼ばれていた。
入口の門構えは、一般の家では構えることは許されず「本陣」「脇本陣」だけに許された。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので現在残っている藤川宿内では古い遺構である。

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明治になって宿場の制度が廃止となり、その後、藤川村役場として使われ、現在は藤川宿資料館となっている。

西棒鼻

「棒鼻(ぼうはな)」とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。

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藤川に再現された棒鼻は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。牓示杭(ぼうじぐい)(境界を示す杭)と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。

問屋場跡(藤川宿)

藤川宿の問屋場は、宇中町北にあった。問屋場は宿場町では最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿ではここを御伝馬所」とも称していた。

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この問屋場については記録によると、
一、人馬継問屋場   一ヶ所   宇中町
     問屋      弐人     年寄    五人
     帳付      四人     飛脚番   六人
     人馬差     六人     小使    六人   とある。

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また当初の問屋場は、問屋場役人の問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に現在地に専用の建物を設けて事務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割を終えた。

高札場(藤川宿)

高札場は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などの掲げ民衆に周知させるための場所として設置されていました。宿場にも設置され、各宿場の距離を測定する基点ともされていました。
代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられます。藤川宿の高札は6枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。

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多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字や墨入れにも許可が必要でした。そのため、幕府や藩により「高札番」という役職が設けられ厳しく管理を行っていました。

藤川宿駒曳朱印状

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藤川宿本陣跡

東海道と藤川宿
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に「伝馬(駒曳)朱印状」を下付して「宿駅」を指定するとともに、公用の旅行者のために「伝馬」三六疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。
これが近世宿駅制度の始まりです。慶長9年からは幕府の命により、日本橋を基点とした五街道の整備が開始されました。
慶長6年に整備された藤川の宿は、品川宿から数えて37番目の宿駅でした。

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本陣跡
宿場にはさまざまな施設がありました。中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠屋、茶屋などの休泊施設と隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場でした。本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅をする幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行者は旅籠屋、茶屋などに休泊しました。
藤川宿には当初二軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣としての役割を果たしていました。しかし、藤川宿は東海道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。

本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。井戸は二ヶ所あり、中庭に面した座敷がありました。北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を山の眺望は江戸時代のままです。本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。

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藤川宿
中世における藤川の集落は山網川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されます。
東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。
そのため、慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村68戸を藤川宿東隣に移住させる加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。

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天保14年(1843)「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の総人口は1213人、家数は302軒となています。これは、東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。しかし、藤川宿には本陣、脇本陣、問屋場、高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。

藤川宿

岡崎から藤川へ

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東海道五十三次、37番目の宿場として設けられた藤川宿の町並みは九丁二十間(約1キロ)で、天保十四年(1843)の宿内人口は、1213人、(302軒)で、本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。旅籠屋は、大7軒、中16軒、小13軒でした。

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ここから赤坂宿までは二里九丁、岡崎宿へは一里二十五丁でした。
藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は、東の新居宿から西の宮宿(熱田)まで十一宿が組合で、赤坂宿とともに「組合宿」の取締まりの宿場でした。

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さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の四宿連名で荷車の使用を願い出て、街道中で初めて幕府の許可をもらっていました。

道標

江戸時代街道を旅する人々が便りにしていたのが「道標」です。主要な道の分岐点には必ず道標が建っておりました。東西南北を太陽に頼るしかない当時の旅人にとって自分の行き先を示してくれる道標はどんなに有り難い存在であったか想像できます。

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この道標は伝馬の脇本陣であった杉山家所蔵の物を複製したものですが、素材も当時そのままの岡崎産の良質な「花崗岩」を使用し、建っていた場所は東海道より足助街道へ行く道を示しています。

御馳走屋敷

徳川家康が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月、同年10月には田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。
吉政は矢作川に初めて橋を架け、東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で岡崎はその典型でした。これが二十七曲りで、しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。

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現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政九年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。
御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、御茶壺、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重に挨拶したという。

籠田惣門(岡崎宿東海道二十七曲り道標)

きららみち(明治二巳巳年十二月建之)

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西本陣前角

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西本陣跡

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田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。

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西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北に曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく。岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。
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