知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

日本庭園

林昌寺のつつじとサツキ

林昌寺の山号は「躑躅山」といい、平安時代後期、堀河天皇が行幸のおり、山躑躅(つつじ)が見事であったことから、山号を躑躅山と改めたという歴史があります。重森三玲氏作庭のモダンな寺庭では、毎年5月、ツツジに続いて美しく刈り込まれたサツキが見頃を迎えます。庭は昔、躑躅丘と言われた丘陵の一角であり、山の斜面を利用した見事な景観です。

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天平年間に開創されたとされる寺である。天正年間に織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めの兵火によりことごとく焼失したが江戸時代中期に再建され現在に至る。

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訪れたのは4月22日、少し早かったか。

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三室戸寺庭園

五千坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、五月のツツジ(二万株)・シャクナゲ(一千本)・六月のアジサイ(二万株)・七月のハス・秋の紅葉など四季を通じ楽しめる。

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         山吹や宇治の焙炉の
                   にほふ時     松尾芭蕉

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高野邸池泉回遊式庭園

この庭園は、昭和12年高野家邸宅完成と同時期に池泉回遊式庭園として、高野二三初代当主により作庭された庭園です。

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この庭園の特徴は、豊富な湧水を利用し池泉周囲の水岸、庭橋、樹木林を歩いて鑑賞できるよう廻遊路を造り、鑑賞点、視界の変化に心を尽くすよう作庭されています。
又、風景要素の重要なポイントとして滝を造り、建物から見て中央には日本庭園として重要な役石である大形の平石を排石として配しており、この石の上に立ち全般を見渡しますと池の中には亀石を二ヶ所に配し、雪見燈籠の脇には鶴の銅像を設置して、鶴亀のめでたい庭に造られていることが良くわかります。

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新宿御苑

東京へは何度も行っているが仕事意外では三度目と記憶している。4月8日、帰りの時間に余裕があったので新宿御苑に行ってみました。

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新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷地の一部であり、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西に伸びる街道と鎌倉街道が交差する要所でした。
このため、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたものとされています。

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現在、大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園、「玉川園」の一部です。

三十三間堂庭園

「京都みやこびと1dayチケット」を購入して地下鉄御堂筋線淀屋橋から京阪電車で京都東山へ、七条駅で降りて三十三間堂に向かいます。

鴨川に架かる七条大橋

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日本庭園
開門まもないというのに多くの外国人観光客が訪れていました。

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沼津御用邸(東附属邸庭園)

東附属邸は明治36年に皇孫殿下(昭和天皇)の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して造られました。夏期には隣地の学習院遊泳場とともに、ご利用の機会も多かったようです。

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新たに設けられた茶室、
『駿河待庵』

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曼殊院庭園

曼殊院門跡

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小堀遠州好みの枯山水で、庭の芯に滝石があり白砂の水が流れ出て滝の前の水分石から広がり鶴島と亀島とがある。
鶴島には五葉の松(樹齢約四百年)があって、鶴をかたどっている。松の根元にはキリシタン燈籠があり、クルス燈籠又は曼殊院燈籠と呼ばれる。
亀島には、もと地に這う亀の形をした松があった。庭園右前方の霧島ツツジは、5月の初旬、紅に映えて見事である。

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この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。

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詩仙堂庭園

「小有洞」という門をくぐり、竹林の中の道を行くと、石段の上に「老梅関」という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。玄関上は3階建の「嘯月楼」となっており、その右手には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の「詩仙の間」、「読書の間」など多くの部屋がある。

庭園造りの名手でもある石川丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春 のサツキと秋 の紅葉が有名で観光客で賑わう。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつ。一般にししおどしとして知られる、添水 (そうず)と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントになっており丈山も好んだという。


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詩仙堂HP

詩仙堂

詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。
凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢普唐宋の詩歌三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を石川丈山自ら書いて四方の壁に掲げた。
「詩仙の間」を中心としているところから呼ばれる。

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石川丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永18年59歳の時で、これは、我が国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組合わせに意味をもたせた。
蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改訂したところである。

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建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことができる。

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新緑も良いが秋の紅葉も見応えがありそうだ。

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石川丈山は、天正11年(1583)三河国(愛知県安城市)に生まれました。石川家は父祖代々徳川譜代に臣であり、丈山も16歳で徳川家康公に仕え近侍となった。松平正綱、本多忠勝等はその親戚であった。
33歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後として徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野侯に十数年仕え、その後母を亡くした丈山は54歳の時、京に帰り相国寺畔に居住し、寛永18年(1641)59歳で詩仙堂を造営し、没する迄の三十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の務めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。
丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎茶(文人茶)の開祖である。

東濱口公園

この公園は東濱口家住宅の一部を開放し、四季折々の木々、桜、さるすべり、もみじ、などを配した日本庭園です。

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