知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

旅行

備中松山城下町

鎌倉時代から続く歴史と伝統の備中松山城下の町並みをのんびり散策、

慶長10年代(1605〜1614)に小堀正次、政一(遠州)親子が備中国奉行(備中代官)として着任してから、備中松山城の修築と備中国特産物の生産、集荷及び家臣団の需要に対して、家中屋敷(武家屋敷)の西、松山川(高梁川)に沿って城下町づくり(町屋)に着手したのが本町の誕生でした。

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高梁の町屋の形態は、間口が狭く奥行きの長い短冊形の敷地に建ち、その敷地の道路側に主屋が設けられ、その背後に炊事場・風呂・便所・土蔵などの付属屋が連なっていく形式です。

この形式は京都の町屋に見られるが、岡山県周辺では高梁のほかに高梁川流域の玉島で見られるだけの珍しい形式となっている。

御根小屋

ふいご峠から迎えに来たタクシーで山裾で降りて御根小屋跡を見て回った。
御根小屋跡は現在、高梁高等学校となっている。

備中松山城主が日常住んでいた御殿にあたる建物で、政庁も兼ねていて天守は象徴的な存在で政治の中心は御根小屋で行われ、実質上「お城」としての機能を果たしていたという。

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観光センターで聞いたところでは、以前は食べ物処が沢山あったけれど今は少なくなったと、観光客が増えてきているのに、と
13時は廻っていたが、のれんの間から覗いてみると満員だったのでぶらぶらと古い商家を見に行きました。

教えて貰った店の蕎麦は一味違った。
見ているとそば粉に塩を少し入れて、丁寧に混ぜているが時間が長い、そこまで混ぜなければならないのかと思うほど混ぜていた。

備中松山城

岡山県高梁市の臥牛山山頂に建つ、
備中松山城天守(国指定重要文化財)
最も高い所に天守の現存する山城(標高430メートル)、二層二階の典型的な山城だが三層に見えるように考えられている。
籠城戦を想定し、囲炉裏や装束の間が設けられており、二階には御社壇があるのが特徴で、天守は1683年、水谷勝宗によって大修復されている。

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接続廊下
この天守は二層二階であり、ここは二階ではなく、八の櫓と天守をつなぐ廊下である。

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囲炉裏
板石造りで籠城時の城主の食事や暖房用に用いられたといわれている。
天守閣のなかに切り込みの囲炉裏があるのは珍しい、戦国時代、備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度となく繰り返された経験から生まれたといわれる。

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この階段には踊り場が付き折れ曲がっている。敵がすぐにあがれないように曲げ、巾も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、すべての防御に有利に考えられている。勾配が急であるため各階段の踏み板に滑り止めの工夫がなされている。
この工夫は実際に登りやすい。

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狭間
敵兵攻撃の為の弓・鉄砲用の穴、敵の攻撃を防ぐため外側はなるべく小さな穴でなければならない。壁が厚いため小さな穴では内側からは敵が見えず鉄砲や矢の方向が定められないので内側を広くして見える範囲を広くする工夫であった。

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二重櫓
天守の北側に岩盤の上に造られた二重櫓で天然の岩盤の上に石垣を築き建てられている。

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この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山の大松山に砦が築かれたことに始まります。

備中松山城

岡山県高梁市街地の北端にそびえる「おしろやま」の愛称で親しまれている「臥牛山」は、北から「大松山」・「天神の丸」・「小松山」・「前山」の四つの峰からからなり、、南から見た三容が草の上に伏した老牛の姿に似ているとして「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれ備中松山城は頂を中心に全域に及んでいました。

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三の丸跡

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厩曲

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黒門跡と奥が四の平櫓跡

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二ノ丸跡

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現在、備中松山城と呼ばれるのは、小松山の山頂を中心に築かれた近世城郭を指し、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。
城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、昭和25年に重要文化財の指定を受けています。

備中高梁

今回の旅の目的は備中高梁、現存天守の残る日本一高い山城、臥牛山にある備中松山城に登り石火矢町を散策することにある。

備中高梁駅(伯備線)
山陽本線倉敷駅から各駅停車で約36分、倉敷駅から暫く北に走り北西へと進路を変る。

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左の山が備中松山城のある臥牛山、駅前の観光センターによると天気の良い日は白山が見えると言っていたがすっかり忘れていた。

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道 (北海道旅行後記)

道にもいろいろな道がある。織田信長の「天下取りへの道」、坂本龍馬の「脱藩の道」、
何かの本で読んだ気がするが(記憶は定かでないが)、そのむかし、徳川慶喜の大政奉還後、尾張藩の支援を受けて蝦夷地に入植した人々がいた。作物は育たず寒さと飢えに苦しんだ歴史があった。

今回の北海道旅行は晴天に恵まれた空の道から始まった。遠く右手に富士山が雲の上に顔を出し、日本アルプスを越えて北上した。

下調べは不十分であたったが、各駅停車の列車に乗れたことに満足している。若い頃に夢見た各駅停車に乗って日本一周の旅の一部が叶えられたような気がしている。
ただ、乗降客が少ないので致し方ないが、列車の本数が少ないから、冬の夕方に無人駅に降りれば大変なことになる。

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今の私は慌てることは何も無い、「ゆっくり」でいいのである。行ってみたい紀伊半島にある「峠」がある。雪が溶けたら各駅停車に輪行して行こうと思う。車と違って駐めた場所に戻る必要が無いことから至って便利なのである。

大阪は「せわしない」感があるが、北海道ではさほど感じることはない。何よりも感じたのは、親切・丁寧であった。
人のあたたかさが、旅人をあたたかくする。

美瑛から富良野へ

 美瑛から富良野に移動です。

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 美馬牛駅プラットホーム(ホームに柵がないので無人駅かもしれません)

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 富良野プラットホーム

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 富良野駅

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 雪下ろしをしてました。

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 富良野は雪が多い感じでした。

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美瑛

留萌に行きたかったが日本海に発達した低気圧が通過していて大荒れとのこと、富良野線で美瑛・富良野に行くことにしました。

 美瑛駅プラットホーム

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 美瑛駅

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 美瑛駅から美瑛町役場まで人に会うことはありませんでした。

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 美瑛町役場にある「四季の塔」から、展望台の高さは約33メートル、

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 冬期は平日のみ見学できるようだ。2階から登らせてもらいました。

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名寄から

 駅前のバスセンターでカードを購入して旭川に戻ることにしました。

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 乗客は少なく殆どのバス停は止まることもなく通過します。

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 相変わらず雪は降り続いていました。

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宗谷本線で名寄へ

旭川発稚内行きスーパー宗谷を9時10分に乗った場合、稚内には12時47分着、各駅停車で抜海駅まで二駅戻って14時28分、次の稚内行きは16時33分、

抜海駅は無人駅、駅前は商店も喫茶店も何も無い。民家が数軒あるだけ、漁港まではかなり距離がある。
2時間5分の待ち時間はちょっと、抜海駅は運行しない時間帯もあるので注意、基本的に日に上下共4本となっている。

あきらめて、名寄まで行ってみました。

 塩狩駅、ここで対向車の遅れ待ち10分、

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 名寄駅プラットホーム

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 名寄駅

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 ぶらっと散歩してみました。

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