知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

人物

芭蕉句碑

     − 爰(ここ)も三河むらさき麦のかきつはた −     松尾芭蕉

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「芭蕉句碑」は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。
この碑の高さは1.65メートル、幅1.07メートル、厚さ約0.2メートル、花崗岩の自然石で、藤川宿周辺の芭蕉句碑では最大級と言われている。

歌川豊広

      藤川の しゅくの 棒ばな みわたせば
                   杉の しるしと うで蛸の あし

「藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうでだこを売っており、たこのあしがぶらさがっている。」

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歌川豊広
1774〜1829、江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。

末永雅雄博士

大阪狭山市名誉市民で、文化勲章受章者の末永雅雄博士は1897年に狭山池の畔に生まれました。
少年時代に狭山池須恵器の破片を採取した末永博士は1926年、29歳のときに狭山池改修工事に伴う中樋放水部の発掘調査を指導しました。

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この時に出土した古墳時代の石棺が、鎌倉時代の重源が伏せた「石樋」であると考察した。奈良県石舞台古墳、唐古・鍵遺跡、高松塚古墳等の発掘調査、古代の武器・武具に関する研究、古墳の航空査察、橿原考古学研究所の創設と後進の育成等、偉大な業績を積み重ね、日本考古学の礎を築きました。
限りない情熱を学問に傾注し、郷土狭山をこよなく愛し続けた末永博士は『狭山町史』の編さんや狭山町立郷土資料館の開設と学術指導に尽力されました。

田中吉政

田中吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった秀吉の甥秀次の付家老として天正十八年(1590)に岡崎に入城し、以降十年間、新しい城下町づくりを行った。

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関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。
又、矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。

松尾芭蕉

     −木のもとに汁も鱠も左久良哉−
                             松尾芭蕉  

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     元禄三年三月二日伊賀の小川風麦亭において、
     風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である。

徳川家康

徳川家康は岡崎城内で生まれ、幼少の頃は人質として苦難の道を歩み、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦大勝して、天下をおさめるに至った。
以後、持前の才能を生かし、全国統一の念願を叶えると共に、徳川幕政300年の基盤をも作り元和2年4月17日、75歳でこの世を去った。

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若山牧水旧居跡

歌人若山牧水が千本松原の景観に強く心ひかれ、沼津に移住してきたのは、大正9年34歳の夏であった。
大正14年、ここに500坪の土地を求めて居宅を新築し沼津永住の念願を果たした。

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建物は木造二階建て79坪で全11室あり、牧水が夢に描いていたとおりのものであった。牧水は、千本松原を愛したように、この居宅を非常に愛していたがこの家にはわずか3年暮らしただけで、昭和3年の秋、43年の短い生涯をこの地に閉じている。牧水の建てた家は戦災で焼失した。

井上靖文学碑

井上靖は、「私が小説を書くようになったのは、沼津の町のお陰である。人生というものがどんなものか、生とは、死とは、文学とは、−そうしたことに関する最初の関心を、私はこの町とこの町の友達教わったのである」と述べ、中学時代に、文学少年と香貫山を歩き廻ったり、千本浜で泳いだりして過ごしたすばらしい青春の日々に思いを寄せ、井上文学の原点が沼津中学時代にあったと述懐しています。

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この文学碑は昭和38年沼津中学卒業生が中心となって建立されました。御影石の台座には井上靖の代表的作品名が刻まれています。

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若山牧水歌碑

       幾山河 こえさりゆかば 寂しさの
               はてなむ国ぞ けふも旅ゆく   牧水

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歌人若山牧水は、明治18年宮崎県に生まれ、旧制延岡中学時代から短歌に親しみ早稲田大学在学中に中国路を旅し、この「幾山河」の歌を作った。24歳のときに出版した歌集「別離」が歌壇に認められ一躍世に出た牧水は大正9年夏一家を挙げて沼津に移住した。
その後、千本松原の景観に魅せられ、この松原にほど近い地に新居を構えた。旅と自然に親しみ、酒をこよなく愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し昭和3年43歳で永眠した。

角田竹冷句碑

角田竹冷(本名真平)は、安政三年(1856)富士郡柚木村に生まれ、沼津で働きながら苦学し、やがて東京へ出て代言人(弁護士)となった。東京府会議員、衆議院議員、東京代言人組合長等多くの公職を歴任したのち、大正八年62歳で亡くなった。

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幼少の頃から俳諧を好み、明治28年、尾崎紅葉らと秋声会を結成、「秋の声」を刊行した。毎日新聞に俳句欄を設けたり、読売新聞の政治面に俳句を挿入したりして評判となった。
また、明治20年6月、日本橋の浜町河岸で起こった箱屋殺しで弁護を引き受けたが、この事件が後に歌舞伎の「月梅薫朧夜」として取り上げられ竹冷役を尾上菊五郎が演じて大きな話題となった。
この句碑は、
「時は弥生 瓢枕に 鼾かな 竹冷」と刻まれている。
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