知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

人物

高野二三

明治16年、福井県今立町の和紙漉きの家に生まれました。製紙に適した水を求めて富士山麓を探索し、柿田川の水が最適であると決め昭和6年当地に高野製紙所を設立しました。

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現在の町営駐車場の場所に高野製紙所があり境川から水を引き柿田川に井戸を掘り、汲み上げた水で特殊な紙(海図・壁・襖などに使う和紙)を作り、作られた和紙は施設内にある蔵に保存されていました。

若山牧水

若山牧水歌碑
          のずゑなる 三島のまちのあげ花火 
                  月夜のそらに 散りて 消ゆなり

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若山牧水は、九州宮崎県に生まれ、大正九年静岡県三島市の西隣の沼津市香貫に住み、三嶋大社の夏祭りの花火を見てこの歌を詠んだ。

朝日文左衛門重章屋敷跡(御畳奉行)

朝日文左衛門重章は、学芸・文化が開花した元禄4年(1691)から享保2年(1717)までの26年間にわたり、日記『鸚鵡籠中記』を著したことでしられる。この地はその屋敷跡である。

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自らの生活や見聞したこと、世相などをそのまま記した『鸚鵡籠中記』は、元禄の人々の生活ぶりを知る貴重な文献で、神坂次郎著「元禄御畳奉行の日記」で紹介された。
朝日氏は、尾張徳川家に仕える100石取りの武士で、御畳奉行を拝命したことにより、役料40俵が支給された。文左衛門は非番の日には好きな魚取り、芝居などに熱を上げ、物見高く城下の内外を往来していたことが記録されている。享保3年に45歳で他界した朝日氏の跡には名古屋コーチンゆかりの海部氏(120石)が明治まで居住した。

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周辺の白壁・主税・橦木町界隈は、中級武士の町から明治以降は陶磁器産業や企業家の住まいが集積する街となった。現在は名古屋城から徳川園に至る歴史文化エリア「文化のみち」の中核として、名古屋市の「町並み保存地区」となり、文化の香を伝えている。

文化のみち二葉館

愛知県名古屋市旧川上貞奴邸
この建物は、「日本の女優第1号」の川上貞奴が居住していた和洋折衷の建物を創建当時の姿に移築復元したものです。

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文化のみちの拠点施設として、文化のみちの情報発信をすると共に、川上貞奴関連の資料や郷土ゆかりの文学資料を展示しています。

松尾芭蕉句碑

     −馬方はしらじ時雨の大井川−   松尾芭蕉

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       −さみだれの空吹きおとせ大井川−   松尾芭蕉

芭蕉句碑

     − 爰(ここ)も三河むらさき麦のかきつはた −     松尾芭蕉

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「芭蕉句碑」は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。
この碑の高さは1.65メートル、幅1.07メートル、厚さ約0.2メートル、花崗岩の自然石で、藤川宿周辺の芭蕉句碑では最大級と言われている。

歌川豊広

      藤川の しゅくの 棒ばな みわたせば
                   杉の しるしと うで蛸の あし

「藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうでだこを売っており、たこのあしがぶらさがっている。」

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歌川豊広
1774〜1829、江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。

末永雅雄博士

大阪狭山市名誉市民で、文化勲章受章者の末永雅雄博士は1897年に狭山池の畔に生まれました。
少年時代に狭山池須恵器の破片を採取した末永博士は1926年、29歳のときに狭山池改修工事に伴う中樋放水部の発掘調査を指導しました。

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この時に出土した古墳時代の石棺が、鎌倉時代の重源が伏せた「石樋」であると考察した。奈良県石舞台古墳、唐古・鍵遺跡、高松塚古墳等の発掘調査、古代の武器・武具に関する研究、古墳の航空査察、橿原考古学研究所の創設と後進の育成等、偉大な業績を積み重ね、日本考古学の礎を築きました。
限りない情熱を学問に傾注し、郷土狭山をこよなく愛し続けた末永博士は『狭山町史』の編さんや狭山町立郷土資料館の開設と学術指導に尽力されました。

田中吉政

田中吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった秀吉の甥秀次の付家老として天正十八年(1590)に岡崎に入城し、以降十年間、新しい城下町づくりを行った。

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関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。
又、矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。

松尾芭蕉

     −木のもとに汁も鱠も左久良哉−
                             松尾芭蕉  

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     元禄三年三月二日伊賀の小川風麦亭において、
     風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である。
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