知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

人物

頼山陽碑文

【碑文】
萬珠濺沫碎秋暉   仰視懸泉劃翠微   山風作意爭氣勢   横吹紅葉満前飛

【読み】
萬珠(ばんじゅ)、沫を濺(そそ)いで、秋暉(しうき)に碎く。
仰ぎ視る、懸泉の、翠微(すいび)を劃くするを。
山風、意を作(な)して氣勢を爭ひ。
横さまに、紅葉を吹いて、満前に飛ばしむ。

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野口英世

箕面公園遊歩道

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野口英世博士像
世界の医聖と言われている野口英世博士(福島県猪苗代町出身)はアフリカで黄熱病の研究中、自らも感染して昭和3年殉職するまで数多くの伝染病の予防に貢献した。
この銅像は、大正4年、野口英世博士が15年間の米国留学から帰国の際、待ちわびていた母を伴い箕面に立ち寄り年老いた母を慰めた。これに感激した南川光枝氏の銅像建立の願いに、大阪府知事、箕面町長、箕面町教育委員会は府下学童並びに箕面町ゆかりの方々から浄財を求め、故野口英世博士の面影を刻み、生前の偉業を讃えるとともに崇高な人格を慕って、昭和30年4月建立した。

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野村泊月句碑

箕面川

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野村泊月、本名を勇、丹波の産。兄西山泊雲と供に高浜虚子につき俳道に入り、早稲田大学英文科を終え、中国、米国に遊学後、大阪にて「山茶花」を興し、「桐の葉」を主宰し、多くの指導者を育成したるホトトギス派の功労者である。晩年、不幸にして失明、昭和36年2月13日豊中にて逝く。行年80歳

            −椎の花八重立つ雲の如くにも−   泊月

この句は昭和23年5月瀧安寺にて詠んだものです。

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藤堂高虎

弘治二年(1556)、近江国犬上郡藤堂村(のち在土村、現滋賀県甲良町)に生まれ、15歳の時、浅井氏に仕え姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正四年(1576)、21歳で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に300石で召し抱えられ天正13年には紀州粉川(和歌山県粉河町)で初めて一万石の大名となった。

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その後、豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)七万石となり、二度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)二十万石の大名となった。

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そして、慶長十三年(1608)、いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地伊勢・伊賀に二十二万四千石で移され、大坂の役の後に加増され三十二万三千余石の大大名となった。
また、高虎は、築城の第一人者としても名高く自身の居城として築城した板島城(宇和島城)・今治城や津城・伊賀上野城の修築、城下町形成はもちろんのこと、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・篠山城・丹波亀山城・大坂城・二条城と数多く手がけている。
このように高虎の生涯は戦乱に明け暮れ、また各地を奔走し席の温まる暇も無いものであったが、武将らしさとともに領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。

西嶋八兵衛

藤堂高虎に重用された西嶋八兵衛は、干ばつに苦しむ地域に出向き優れた土木技術と努力によって、全国の町づくりに多大な貢献をしました。

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「雲出井の開削」は、戸木の取水堰を作り分水して干ばつに悩む雲出本郷町・長常町・伊倉津町などの田を美田に改良しました。
又、讃岐高松などの灌漑用水事業にも貢献し、日本三大公園の栗林公園の整備は有名です。水の守護として、土木事業者、農業関係者、水商売の市民に崇めれてきました。

熊澤蕃山

熊澤蕃山(1618〜1691)
江戸時代前期の儒学者、16歳で岡山藩主池田光政に仕え、一時京都の中江藤樹の門に学ぶ。光政の信任を得て藩政に深く寄与するが、名声があがる一方で蕃山の思想を危険視する流言も多く、幕命により明石藩主松平信之に預けられた。延宝七年(1679)、信之が郡山に移封となったのに従い矢田山麓の地に移り住む。蕃山61歳の時であった。

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貞享二年(1685)信之は下総國古河に転じ、代わって宇都宮から本多忠平が郡山に入る。引き続き郡山に住んでいたが、幕府はこれを認めず貞享四年、古河に移され、元禄四年没、73歳。
蕃山の郡山の在住は九年間であったが、その名声を聞き教えを乞うものが後を絶たず、郡山藩の文教の発展に大きな影響を与えた。

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紫式部

紫式部は「源氏物語」54帖の作者として知られる女流文学者。ここ宇治川の畔一帯に華やかな貴族文化の花が開いた王朝時代に登場した才女とは知られていても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ正確にはわかっていない。999年頃藤原宣孝と結ばれたが、宣孝の死後は寡婦生活の日を送り、「源氏物語」の執筆はこの頃から始められたらしい。

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やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として仕えるようにと召し出され宮仕えの身となる。
「源氏物語」が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたことの生活を綴った『紫式部日記』(1008秋〜1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる『紫式部集』があり、当時の公家の様子を伝える貴重な遺作となっている。

与謝野晶子(宇治その5)

   【さわらび】
       さわらびの歌を法師す君に
           良き言葉をば知らぬめでたさ   与謝野晶子       

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与謝野晶子(宇治その4)

   【宿り木】
       あふけなく大御女をいにしへの
               人に似よとも思ひけるかな   与謝野晶子


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与謝野晶子(宇治その3)

   【総角】
       こころをば火の思ひもて焼かましと
                  願ひき身をば煙にぞする   与謝野晶子


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