知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

人物

高見順の生家

昭和を代表する作家高見順は明治40年この家で生まれた。父は当時の県知事阪本デ圭、母は高間古代。2歳の時に上京し、東京大学を卒業、作家活動に入る。「故旧忘れ得べき」で芥川賞候補に挙げられ、以後、人気作家として活躍。昭和40年食道ガンの為没する。
日本海を望む海岸崖上に古里三国に想いを寄せた「荒磯」の詩を刻んだ文学碑が建つ。

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「われは草なり」
われは草なり 伸びんとす 伸びられるとき 伸びんとす 伸びられぬ日は 伸びぬなり 伸びられる日は 伸びるなり
われは草なり 縁なり 全身すべて 縁なり 毎年かはらず 縁なり 縁のおのれに あきぬなり
われは草なり 縁なり   縁の深きを 願ふなり ああ 生きる日の 美しき ああ 生きる日の楽しさよ われは草なり 生きんとす 草のいのちを生きんとす

俵万智

さくら

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「啓発録」橋本左内

「啓発録」は嘉永元年(1848)郷土の偉人橋本左内が、15歳の時に自分の生活を反省して、自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたものです。

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橋本左内

橋本左内は、幕末福井藩士です。16歳の時に大坂に行き蘭学や西洋医学を学ぶなど、若い頃から熱心に勉強をしました。左内は24歳の若さで藩校「明道館」の学監同様心得に就任し、欧米の優れた学問を学ばせようとしましたが、「むやみにまねるのではなく、日本古来の道徳など精神的な学問を助けるものとして学ばなければならない」と洋学を学ぶ時の注意も忘れませんでした。

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将軍の後継問題が起きると、福井藩主松平春嶽の命令を受けて、一橋慶喜を将軍にしようと江戸や京都で活動しました。しかし、徳川慶福を将軍にしようとした井伊直弼が大老になると、左内は捕らえられ、安政6年26歳の若さで処刑されました。

由利公正宅跡

この付近は、かの明治政府初代の財政担当者として、また五箇条の御誓文の起案者として知られている福井藩出身の逸材由利公正の宅跡である。彼は在藩時代三岡八郎と称して、ここに居を構えていたが幕末維新の大立物坂本龍馬や福井藩の賓師としての名声のあった横井小楠が彼を訪ねてここに足跡を印したことがある。

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実際の由利公正宅跡は、明治33年から34年かけて行われた河川改修工事によって消滅しており、現在はその跡を見ることはできない。

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龍馬の歌碑

文久三年(1863)5月、坂本龍馬は神戸海軍塾資金調達の為福井へ来た際に由利公平(三岡八郎)宅へ夜半にも関わらず、幸橋(文久2年架橋)を横目に小舟に棹さして福井藩政治顧問・横井小楠と共に訪れた。そこで、肝胆相照らす仲となり福井藩の挙藩上洛の話や、ニッポンの洗濯の話など熱い想いを歌に託し、この地にて謡ったと伝わっています。

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「そこで三人が炉を抱へて飲み始めたが、坂本が愉快極まって、
     −−−君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行く末−−−
という歌を謡ったが、その声調が頗る妙であった。翌朝、坂本は勝つと大久保に会いにいくという事で江戸に向かった。」(由利公正伝)

日下部太郎

この像は、日下部太郎とウイリアム・エリオット・グリフォスの師友関係を象徴したもので日下部太郎(1845〜1870)は慶応3年(1867)福井藩で初めて海外留学生としてアメリカに渡りニューブランズウイック市のラトガース大学に入学し学問の研鑽に励んだ太郎は広い分野で優秀な成績をおさめたが、卒業を目前にして病気の為26歳若さで客死した。

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彼の死は大学関係者や一般の市民に惜しまれ、大学は太郎に卒業生と同等の資格を与えると共に、同校の優等生で組織されるファイ・ベータ・カッパー協会の会員として彼を推薦し、その印として金の鍵を贈った。
ウイリアム・エリオット・グリフォス(1843〜1928)は大学の先輩として太郎を指導していたが、その勉学態度を見て日本人の節度、勤勉さに心を動かされ、日本に興味をもつようになった。
明治4年グリフォスは福井藩からの招聘に応じ藩校「名新館」における理化学の教師として来福し多くの若者を指導した。国内情勢の変化のため、グリフォスはわずか10ヶ月で福井を離れたが、その後も『皇国』という本の出版をはじめ数多くの講演や執筆活動を行いアメリカにおける日本紹介と理解に貢献した。

横井小楠

横井小楠は熊本藩士であったが、優れた政治思想家として松平春獄公の政治顧問となり、招かれて四度来福した。文久三年(1863)にはこの地に寄留し藩政を指導した。

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渡辺 洪基生誕の地

渡辺 洪基(わたなべ こうき)1848年1月28日(弘化4年12月23日) - 1901年(明治34年)5月24日)は明治時代の日本の官僚、政治家。

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越前国武生(福井県武生町 (現在の越前市中心部))生まれ。慶応義塾大学卒。漢学、蘭学を修め、佐藤舜海、福沢諭吉の塾で学ぶ。学習院次長、元老院議官、工部少輔、東京府知事、帝国大学(東京大学の前身)初代総長、文官試験局長官、駐オーストリア公使、衆議院議員、貴族院議員を歴任し、東京統計協会(日本統計協会の前身の一つ)、国家学会、日本建築学会、工業化学会(日本化学会の前身の一つ)など多数の学会会長を務めたほか、工手学校(工学院大学の前身)、大倉商業学校(東京経済大学の前身)の設立に関わった。

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ちひろの生まれた家

絵本画家 いわさきちひろは大正7年(1918)12月15日 雪の降りしきる朝にこの家に生まれた。母、岩崎文江は長野県松本市の出身、大正2年奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)を卒業し、開校されたばかりの町立武生実科高等女学校の教師として武生に赴任、大いに女子教育向上に尽力した。

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大正7年の春、文江は長野県出身の倉科正勝と結婚したがその後も単身武生で教師を続けていた。ちひろ誕生後の大正8年3月、母文江はちひろを抱いて夫が待つ東京へと武生を去った。
戦後、画家となったちひろは子どもの幸せと平和を願い8千点の絵を残し昭和49年8月8日、55歳の生涯を閉じた。

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