知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

文化

水辺の文学碑(六)

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穂積忠(歌集「叢」)

     町中に富士の地下水湧きわきて 冬あたたかにこむる水靄

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井上靖(少年)
三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、町の中央に映画の常設館があって、その前には幡旗が何本かはためいていた。私たち山村の少年たちは、ひとかたまりになり、身を擦り合わせるようにくっつき合って、賑やかな通りを歩いた。

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水辺の文学碑(四)

太宰治(老ハイデルベルヒ)

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町中を水量たっぷりの澄んだ小川が それこそ蜘蛛の巣のやうに 縦横無尽に残る隅なく駆けめぐり、清冽の流れの底には 水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、三島の人は 台所に座ったままで清潔なお洗濯が出来るのでした。

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水辺の文学碑(三)

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司馬遼太郎(裾野の水、三島一泊二日の記)

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この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。
その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のように そのすきまに多くの水脈をつくった。融けた雪は山体に滲み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の緑辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。

水辺の文学碑(二)

お知らせ
     昨日午後 突然「おきてがみ」に不具合が生じて開かなくなりました:。ブログパーツ内にはあ
     るのですがなぜかブログには表示されません。訪問することもできなくなりました。申し訳あり
     ません。


松尾芭蕉(野ざらし紀行)
       霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

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若山牧水(箱根と富士)

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宿はづれを清らかな川が流れ、其処の橋から富士がよく見えた。沼津の自分の家からだと その前山の愛鷹山が富士の半ばを隠してゐるが、三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。克明に晴れた朝空に、まったく眩しいほどに その山の雪が輝いてゐた。

水辺の文学碑(一)

桜川(三島)沿いにある「水辺の文学碑」

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十返舎一九(東海道中膝栗毛)

日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
このとき、ようやく三島の宿へつくと、両側よりよびたつる女の声々・・・・・・ 女「お泊まりなさいませ、お泊まりなさいませ」 弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら 泊まるべい」 女「すんなら、サア、お泊まり」 弥次「あかんべい」 ・・・・・・喜多「いい加減に、此処へ泊まるか」 女「サア、お入りなさいませ、お湯をお召しなさいませ」 弥次「ドレ、お先に参ろう」・・・・・・と、はだかになりてかけ出す。 女「モシ、そこは雪隠(せっちん)でござります。こっちへ・・・・・・・」 弥次「ホイ、それは」と湯殿へゆく。

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正岡子規(旅の旅の旅)
       面白や どの橋からも 秋の不二

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沼津垣

沼津垣は昔から沼津周辺で浜の潮風を防ぐために用いられてきた垣根で、景観的にも実用的にも優れたものです。
旧沼津御用邸でも多く用いられたことから一般的に知られるようになりました。

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沼津垣

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材料は箱根竹と呼ばれる細い篠竹を十数本ずつ束ねて網代編みにしています。この束を「手」といい、どの束にも別の二つの束を超えて編んでいるため、この編み方を「二手越し」と呼ばれています。

河内音頭宗家初音家礎之地

大阪の夏を彩り、賑やかす「河内音頭」。この仏供養の盆踊り音頭が、今日、重厚な語りに加えリズミカルな旋律で全国津々浦々まで知られるに至っている。
それは、明治、大正、昭和、平成と継承された。我が国近代の生活文化形成のなかで育てられ、磨きあげられた民衆芸能でもある。

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近世以来の自由都市の伝統に抱かれた平野郷の地で、昭和のはじめ、初音家太三郎にひきいられた初音家五人衆によって、松山公園(現平野公園)を拠点にして現在の「河内音頭」の礎が築かれてから七十余年の歴史が刻まれるに至った。
今日、河内音頭は大阪を代表する盆踊り音頭から、我が国を代表する芸能としても高い評価がされ、それは河内音頭が平野郷の創造力あふれた潜在的な文化性をも伝承しているからでもある。

松前藩屋敷


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蝦夷地唯一の城下町松前は、幕末時には戸数8000、人工30000を数え、仙台以北では最大の都市といわれ、近江商人を中心として北前船(弁財船)によって日本海沿岸から瀬戸内海方面まで広く経済交流が行われ大いに発展した町であった。

武家屋敷
松前藩の家臣は、寄合、準寄合の重臣から、中書院席、中ノ間席、御先手組席の士分の侍がおり、皆広大な屋敷を構えていた。この武家屋敷は松前藩士籍の最末席の御先手組席(百十石高)家臣の屋敷を再現したものといわれる。

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武家門、武者塀を配した屋敷内には、式台、茶の間、台所、来客の間を配している。

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旧杉山家住宅

杉山家は富田林寺内町創立以来の旧家で、代々「杉山長左衛門」を名乗り、江戸時代を通じて富田林八人衆の一人として町に経営に携わってきました。

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旧来の家業は明らかにはなっていませんが、貞享(2(1685)年に酒造株を取得した後は造り酒屋として成功し、当初三十石であった酒造石高は元禄10(1697)年に百四石、天明5(1785)年に千百三石と著しい発展を遂げています。

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江戸時代の屋敷図によりますと、杉山家の屋敷地は町割りの一画を占める広大なもので、その中に主屋を始め酒蔵、釜屋、土蔵など十数棟が軒を接して建てられており、その繁栄をうかがうことができます。

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現存する主屋の建築年代は、土間部分が17世紀中期で最も古く、その後に座敷や二階部分を増築し、延享4((1747)年頃ほぼ現状の形に整ったものと考えられています。

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富田林寺内町の古い町屋は農家型の平面構成をとり、煙返しなど農家的な技法も見られます。旧杉山家住宅はこれら民家の中で最も古い遺構で規模も大きく質の良い商家の住宅として、重要文化財の指定を受け現存しています。

備考 昨日は投稿ボタンを押し忘れていたのか全て消えていました。なので本日の投稿といたしました。

向井家住宅

江戸時代泉南地域の農家の住宅で、土蔵の棟木に享和2年(1802年)建立の墨書があり、母屋もその頃に建てられたと考えられている。

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土間の北側に3穴の立ちかまどとながしを置き小屋組「天井」は細い竹材で組まれ太い棟木や梁で重い屋根を支えているとある。
屋根は茅葺きで、庇には本瓦を、一番高い棟には巨大な雁振瓦を乗せている。


内部見学は予約が必要、休館日 月曜から水曜 
問い合わせ先 泉佐野市役所 社会教育課 072−463−1212
駐車場 無
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