知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

町屋

旧吉川家住宅

この民家は奈良県橿原市中町に所在していたが吉川家より寄贈を受け大和民族公園に移築復原したものである。
吉川家は元禄16年(1703)山之坊村の吉川家より分家したとの記録もあり、その頃に建築されたと考えられます。

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現在の屋根は当初建築された入母屋造り上屋を茅葺き下屋は四面とも茅葺きです。吉川家は国中(くんなか)の自作農家で喰違い四間取りを採用し民家の間取りの変遷を知る上で資料的価値の高い民家とされています。

旧臼井家住宅

旧臼井家住宅
この民家は、奈良県高市郡高取町上土佐にあった町屋で、臼井家から寄贈を受け、民俗公園に移築復原したものである。
高取町は古くから奈良盆地と吉野を結ぶ旧街道にあたり、高取町上土佐(旧土佐町)は植村藩の城下町で半商半農的な町場でした。

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臼井家はこの城下で、大手へ通じる道の北側に屋敷を構え、屋号を「伊勢屋」と称し藩の公用伝馬の役を務めるかたわら酒・醤油の販売を営むほか、大年寄も勤めたと伝えられている。

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この主屋は、正面左二間を格子構えとしながら農家風の正面・外観を持つのは、当時の城下町の性格を表しているようです。この建物は二階建で外部を全て土壁で塗り固め、貴重な品物や道具を納めた建物です。

主屋  切妻造、茅葺、桁行九間、、梁間三間、二面庇付本瓦葺、東北面便所付属
内蔵  土蔵造本瓦葺、二階建

旧鹿沼家住宅

「町屋集落」 旧鹿沼家住宅  旧所在地 奈良県大和高田市永和町 建築年式 十九世紀前半

この民家は、大和高田市にあった町屋で、鹿沼治三郎家から寄贈を受け、民俗公園に移築復原したもので、大和高田市は古来から東西に旧横大路(初瀬街道)と南北には下街道の主要路が交差した要所で、近世では宿場町・商業の町として発達した地域です。

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鹿沼家は横大路の北側に屋敷を構え、代々米屋治兵衛を名乗り米屋を営んだと伝えられています。
この主屋は、切妻造りの二階建てで、正背面に庇を付け屋根はすべて桟瓦で葺き、表側の角太格子や、二階の出格子、両側の袖壁など町屋特有の姿を表しています。

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二階は物置で箱階段で上り下りをします。二階の軒は高く、小屋組に登り梁を採用して空間を広く取り、正面に出格子を取り付けるこの形式は奈良県内で最も古い事例にあげることができます。

主屋  切妻造、桟瓦葺、二階建、正背面庇付、背面角座敷

寸松堂

この建物は、鎌倉彫の店舗兼用住宅として建てられたもので、一階店舗部分のガラス戸、ショ−ウインド−などに近代洋風建築の技術が見られますが、全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような特異な外観が印象的です。

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のり真安齊商店

のり真安齊商店(鎌倉・長谷)
安齊商店は、長谷界隈の商業地としての歴史を伝える貴重な建物です。石造の基礎や土間、揚戸など近世の商家を思わせる造りは創建当初の姿をよく留めています。店舗の奥には、昭和13年に建てられた倉庫兼住宅が残されています。

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萬屋本店

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木屋町(京都)

木屋町通は、高瀬川開削と同時につくられた通りではなく、当初は川の岸に人間一人が通れるほどの小道がつけられていたにすぎない。明治28年、京都最初の電気鉄道がこの木屋町通を走ることになり、建ち並んでいた倉庫などを取り壊して道路を拡張し、また、明治四三年には高瀬川を1メートルほど埋めたてて木屋町を西側にも拡張しました。

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木屋町という呼び方は、高瀬川の運送機能の内容と深く関係しており、高瀬舟が運搬した物資は材木や木炭、米や塩といったものがほとんどで、とりわけ薪炭や木材が中心であり、沿岸にはそれらの倉庫や店舗が軒を並べたので、その町並みの光景から木屋町と呼ばれるようになったようである。

また、高瀬川は木屋町通の地名のほかに、いくつかの水運にちなんだ地名を誕生させ京都の歴史を沿岸に残している。備前島町は角倉了以がこの高瀬川を開削したとき、船運の為に備前国から呼び寄せた船頭達を住まわせたところといい、船頭町は、高瀬舟の船頭達がのちに定住したところであるという。
車屋町は、おそらく牛車などの運搬に携わった人々の町だったのであろう。
そのほかに、上大坂町、下大坂町、天満町、難波町といった大坂にゆかりにある町名もこの沿岸に多い。が、それは高瀬川によって京都が大坂に連結されていることを物語っているのではないだろうか。

先斗町

この地はもと鴨川の州であったが寛文十年(1670)に護岸工事のため埋め立て石垣を築き町屋ができて、これを新河原町通りといった。
その後、三条一筋南から四条まで、即ち南北600米、東西50米にわたる地域に人家が建ち並び俗に先斗町と呼ぶようになった。

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正徳二年(1712)に茶屋、旅籠屋両株と茶立の女子を置くことを許され、爾来、花柳の街として繁盛した。
先斗町の呼名は、ここの人家がすべて河原の西側に建ち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたとも、葡萄牙語(PONT)英語の(POINT)の発音によるとも言われる。

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小山家(小諸)

この建物は、400年以上前に建てられたもので、東日本に現存する最も古い民家のひとつです。江戸時代に小諸与良町の庄屋をつとめた家で、当時のままの立派な玄関、庭に面した座敷があります。

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小諸のお殿様が時々訪れていたので、警戒が厳重な造りとなっており、玄関には中からだけ相手が見えるのぞき戸があり、いざという時に殿様が身を隠すための隠し扉や、警備の人が隠れている部屋があります。江戸時代後期に一部改築されていますが、中央広間や大床のある部屋は建築当初のままです。
三角の切妻板葺き屋根、農家に似た部屋割り、門は薬医門で、江戸時代初期の有力な町人の屋敷の姿をよく残しています。道路側に堂々とした切妻屋根を見せているのも町屋の建築としては珍しく貴重な建物です。

酢久商店/小山家

小諸の、北国街道沿いにある酢久商店は「山吹味噌」のブランドで全国的に有名な味噌屋で、この建物の奥に大きな工場があります。北国街道に面した土蔵とその奥のご自宅は幕末の建物で、入り口に掲げられている「御味噌」という看板は、たいへん凝った彫刻が施されたものです。

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小山家の屋号は「酢久」もしくは「やま九」と呼ばれ、江戸中期から酢・味噌醤油の醸造を始め、その後関東をはじめ各地から仕入れた畳表、かつお節、茶、塩などを長野県内に卸す問屋業としても成功しました。
小諸藩の御用商人として藩にお金を貸して武士に近い身分を与えられた旧家です。

復古館

頼春風の養子である小園は、春風館の西側に隣接して「兼屋」と称し、安政6年(1859)に三男の三郎を分家、独立させました。これが復古館の主屋の建物で、春風館と同じく、茶人不二庵の設計によるものと伝えられています。

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木造切妻造二階建、本瓦葺の数奇屋建築で大小路の通りに面した店棟は、明治16年の建築で入母屋造二階建で、一階部分に広い土間をとり、店の間には「ぶちょう」(あげ戸)がそのまま残っています。みせ棟から母屋棟への空間がつぼ庭となり、その二棟をつなぐ玄関の間によりH型となっています。母屋の座敷より縁側で囲まれた庭の北側に、揚げ縁でつながれた茶室があります。 敷地内には、幕末から明治にかけて酒造業を営んでいた頃の臼場・米蔵・室蔵・新座敷が配されています。
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