知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

町屋

森川家住宅

森川家は元塩田地帯に総石垣(高さ二間)で敷地を造成し、沼隈(福山市南方)から明治前期の富豪山路家の母家を移築し改造して母家とし、その背後に座敷を新築し大正初期に完成した。

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そして、離れ座敷を新築して、さらに竹原を中心に幕末から明治前期に活躍した文人、不二庵作の茶室を市内から移築した。
現在は周囲の塩田がすべて埋め立てられ、壮大な石垣が埋没して往時の景観は見ることができないが、母家をはじめ、離れ座敷、茶室、隠居部屋、土蔵、表門、脇門、土塀などの付属屋が完存しており、大正期の素封家住宅の状況を伝えている。

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母家は、土間部分は移築以前のままと考えられるが、床上部分は移築時に改装されている。正面に玄関式台を突き出し、玄関の間から鉤の手に、移築時に加えられた平室部分を含めて五室の座敷を並べ、さながら江戸時代の大名屋敷を想わせる。

頼惟清旧宅(広島県史跡)

山陽の祖父又十郎は、宝永4年(1707)頼兼屋弥右衛門善裕の長男として生まれ、諱を惟清といい晩年には亨翁と称した。

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交運のさかんな竹原の町に紺屋を営みよく詠じたが天明三年(1783)77歳で没す。その子春水(山陽の父)、杏坪はともに広島藩の儒官となり、第2子の春風は竹原の家を継ぎ医院を開いた。
この家は重層屋根入母屋造り本瓦葺の母家と、道路に接する単層屋根切妻造り本瓦葺の離れ座敷からなっており、双方とも塗りごめ造りである。母家の道路側八畳は紺屋の店であったものと考えられている。

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備考
江戸時代後期の儒学者や詩人として活躍した文人、頼山陽の祖父・惟清が紺屋を営んでいた町屋。紺屋用、家事用、書道用の井戸がある。

田葉粉屋(枚方宿)

木南喜衛門家  田葉粉屋(屋号)

東海道枚方宿泥町村の木南家は楠木一族の後裔と考えられ、江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、幕末期には農業経営を発展させ金融業をも営んでいた。
また、くらわんか船の茶船鑑札を所持し宿駅と村の運営に大きな影響を行使した。

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本建物は明治期と推定され長い間口に出格子虫籠窓が連なる伝統的な構成をもつ表屋造りで、広い敷地内には四棟の土蔵を配している大規模な町屋である。

飛騨古川町並み

古くから「娑婆にあぐんだら(飽きたら)古川へ」とも云われ、匠の技が息づく町並み、ゆっくりと過ぎる時を歩いてみた。

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古川の市街地には伝統的な木造建築の町屋が数多く軒を連ね、新しい建物も周囲との調和を考えて建てられており住民の高い意識と大工の技が美しい町並みを創り出している。

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古川には2軒の造り酒屋があり、それぞれにこだわりの美酒が醸造され、造り酒屋の玄関の軒先に掛けられている「酒林」は、杉の葉を球状に束ねたもので毎年11月下旬頃に新酒ができると新しいものに取り替えられる。

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樹齢800年を超える飛騨槙柏

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飛騨古川の町並み

飛騨古川の町屋の多くは、かつて奈良の都の建造物造営に活躍したと伝えられる「飛騨の匠」の技を今に受け継ぐ地元大工の伝統的工法によって建造されています。

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周囲の不調和(そうば崩し)を嫌う住民自らの意志により、古川独特の建築意匠で棟梁のシンボルでもある軒下の彫刻装飾「雲」や出窓、出格子、、土塀などが施され、統一感があり懐かしさを思い起こさせる美しい町並み景観を形成している。

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   杜氏酛摺り像 像製作 中垣克久

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   選・書 司馬遼太郎

   杜氏殿の心澄みゆき魂きはる いのちの酛は生まれ初めけり

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中橋の畔で

中橋(なかばし)は、岐阜県高山市本町一丁目と上三之町を結ぶ宮川に架かる橋で擬宝珠や欄干をそなえ全体を朱色にまとった特徴を持つことから赤い橋とも呼ばれる。

高山が城下町として栄えていた時代に架けられた橋であるが、幾度か水害により流失している。現在の橋は1925年(大正14年)に架け直され、1965年(昭和40年)に現在の形に改造されたものである

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陣屋だんご店(みたらしだんご) 行列が絶えない店

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車屋さんの派犬社員(ミニチュアダックスフンド)

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三町伝統的建造物群保存地区

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この日は高山市内を4時間歩き、ホテルは温泉付き、やはり温泉は疲れがとれる気がする。

日本最古の民家

旧伊勢街道の名残で今も江戸時代の商家の町並みを残している五條新町界隈のなかでも、特に目を引くのが国の重要文化財に指定されている栗山邸、

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棟札に慶長十二年(1607)の銘があり、建築年代の判っているものでは日本最古の民家といわれています。

五條新町

関ヶ原の戦いの功績により二見城主に封じられた松倉重政は、城下町の振興策として93軒の町屋を取り立て、その諸役を免許したことで五條新町を商人の町として繁栄させました。

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慶長二十年(1615)に重政が島原に移った後は、新町は幕府の天領となりました。
この頃の新町は紀州街道に沿う宿場町としての性格を強めていきます。諸役免許は引き続き維持され、商売が営まれ、定期的に市も開催されていました。

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交通の要衝として栄えた五條新町は、南和地域の政治経済の中心として着実に発展してきました。

道しるべ
国道24号線から168号線に入る本陣交差点には、伊勢街道、紀州街道、高野街道を示す古い道しるべが残っています。

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池上邸(本町通り)

本町、下町、南町の通りは松山往来と呼ばれた街道筋にあり、ほぼ直線に配置された備中松山城の大手道の要素をもっていました。
かつての商売の中心地で平入りの町屋が立ち並んでいます。

「平入りの町屋」
高梁の伝統的町屋の形態は、敷地は東西に長い短冊形が基本で、間口が狭く奥行きの長い敷地に建ち、のそ敷地の道路側に主屋が設けられ、背後に炊事場、風呂、便所、土蔵などの付属屋が連なっていく形式です。

池上邸(現在は商家資料館、無料休憩所となっています)
古い商家の並ぶ本町通りにある池上邸です。池上家は享保年間(1716〜1735)、徳川八代将軍吉宗の時代に、この地で小間物屋「立花屋」を始めました。

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代々小間物屋を営みながら高梁川水路の船主・両替商などもして財を築きました。
明治28年(1895)、八代目の当主、池上長右衛門の時立醤油として醤油の製造販売を始め、昭和37年に閉業するまで年間約1000石を生産し、近隣はもとより市外へも販売していました。

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延喜びな(約20年前のおひな様)

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現在残る建物は天保の大火災の後、天保14年(1843)に七代目当主によって建てられ、一部大正時代に改築されたものです。

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備考 
    町屋の特徴
 
   ※ 平入(ひらいり) 建物の棟が道路に並行
   ※ 厨子二階(ずしにかい) 天井の低い二階で倉庫として利用
   ※ 虫籠窓(むしこまど) 虫かごの形をした二階の窓(厨子二階の換気)
   ※ 格子(こうし) 平格子と出格子(丸棒格子もある)
   ※ 絵様持ち送り(えようもちおくり) 庇の支え木(寺社風、装飾用がある)
   ※ 板暖簾(いたのれん) 日射しを防ぐため庇の下に吊し下げた板
   ※ なまこ壁(なまこかべ) 壁面保護のため方形の平瓦を張り漆喰で塗装
   ※ 袖壁(そでかべ) 二階側面にある防火用壁(うだつ)
   ※ 起り屋根(むくりやね) 上面が凸曲線となっている屋根

    町屋の建設年による特徴

   ※ 江戸〜明治初期     厨子二階、虫籠窓
   ※ 明治中期〜大正初期  中二階(座敷として利用)、出格子(大正時代は丸棒)
   ※ 昭和初期          高い二階で塗り壁 

城下町小路

菊屋小路
江戸時代末期に醤油屋を営んでいた商家の屋号が菊屋だったことから隣接する小路に菊屋の名前を冠して呼んでいました。

菊屋小路

阿蘇屋小路
同じく、小間物屋を営んでいた商家の屋号が阿蘇屋だったことから阿蘇屋小路と呼ばれていました。

阿蘇屋小路

蔦屋小路
同じく、肴屋を営んでいた商家の屋号が蔦屋だったことから蔦屋小路と呼ばれていました。

蔦屋小路

その他に、本町、下町、南町には、佐福屋小路、近江屋小路、柿屋小路、お亀小路、鍵屋小路、いなり小路、風呂屋小路、夷小路がある。


備中高梁松山おどり
岡山県三大踊りとして、毎年8月14日から3日にわたって高梁の街を踊り一色で塗りつぶす松山踊りは、遠く慶安元年(1648)、時の松山藩主水谷勝隆が五穀豊穣を祈ると共に城下の繁栄を祝ったことが始まりと伝えられているようです。
その盛大さは県下最大規模と言われています。

 備中高梁 松山踊り <ヨーイ ショ> 月の絵になる お城の矢場で ちょいと小粋な姉さん冠りかけたたすきは夜目にも紅い 
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