知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

史跡

狭山池中樋放水部の石棺群

狭山池石樋
この石樋は、奈良市東大寺の重源が建仁2年(1202)に伏せたもので富田林の「お亀石古墳」付近から運んできたと現地では伝承する。
石棺身の両端を切り取って並べ、蓋を置いて樋官に利用した。昭和初期池の改修前は中樋筋の水路中に亀形の蓋石だけが露れてあったので、これも昔からお亀石という。

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狭山池中樋放水部の石棺群
鎌倉時代に重源が伏せた「石樋」の樋管、大正末年・昭和初年の狭山池改修時に中樋放水部付近から出土した。古墳時代後期から終末期の刳抜式家形石棺と横口式石槨材を再利用している。
博物館内で展示している1点をはじめとし、家形石棺蓋2点、石棺身4点、石槨材1点を数える。石槨材1点は花崗岩、他はすべて凝灰岩(竜山石)である。石棺身のうち1点は底部に円孔を穿つが、その加工は途中で終わっている。中樋取水部の試作品であろう。

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石樋の蓋

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東樋(狭山池)

狭山池(東樋出土地点)
平成6年、平成の改修で上下二層の東樋が見つかり、上層東樋は慶長の改修(1608年)の際に設けられた取水施設で、ヒノキの板材を組み合わせた全長約73メートルの樋管がそのまま残っていた。

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ほぼ同じ長さの下層東樋は、飛鳥時代の池築造時に設けられた取水施設で西暦616年伐採のコウヤマキを刳り抜いて7本連結し、奈良時代にも樋官を増設する。

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大阪府立狭山池博物館で保存・展示している下層東樋と上層東樋は、平成26年、国の重要文化財に指定された。

皇居外苑

明治以降の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火、明暦3年(1657)以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。

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江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに決めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。

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明治維新以降江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれることになった。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模は我が国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

狭山池

日本最古の溜池「狭山池」は何代にもわたって人の手が加えられ現在に至っているが平成の大改修によって初めて周遊路ができた。
子供の頃、北堤には桜の古木があり、桜の咲く頃には毎年トンネルが出来た。その桜の木も平成の大改修の時、すべて切り倒された。

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石川や大和川といった水量の豊富な河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は、水量に乏しく灌漑に苦労していた地域で、現在も狭山池周辺には大小の溜め池が数多く点在する。

今更ではあるが4月12日の桜、
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備考 
    狭山池の築造(616年)   推古天皇の時代
    行基の改修(731年)
    天平宝字の改修(762年) 
    弘仁の改修(819年)
    重源の改修(1202年)
    慶長の改修(1608年)
    元和の改修(1620〜1621年)
    元禄の改修(1693〜1694年)
    安政の改修(1857〜1859年)
    明治の改修(1903〜1907年)
    大正・昭和の改修(1926〜1931年)
    平成の大改修(1988〜2002年)

日高別院のイチョウ

文禄4年、浅野家重臣佐竹伊賀守の尽力によって薗村と島村の荒れ地四町四方を得て堂宇を建立したのが始まり、文政8年(1825)に建立された本堂を中心に書院・庫裏・鐘楼・鼓楼・門が立ち並び、真宗寺院としては紀南最大の規模を持つ。

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日高別院の境内にあるイチョウの木は、幹廻りが約4.6メートル、樹高約十八メートルの巨樹で、文禄4年(1595)、薗坊舎をこの地に移したときに植えられたものと伝えられており樹齢400年以上と考えられ和歌山県指定文化財である。

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高山陣屋

 表門

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 玄関

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北の御白洲 (民事を扱った法廷、孝子節婦の表彰も行われた)

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広間(書院ともいい、儀式・会議・講釈等がおこなわれた)

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御白洲(吟味所)
犯罪者を吟味する。一般庶民は白洲、由緒ある浪人や御用達町人は板縁、武士・僧侶・神官は縁側で吟味を受ける。

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元禄五年(1692)七月、六代高山城主金森頼旹(よりとき)は、出羽国上ノ山に移封となり、飛騨国は江戸幕府の直轄領となった。幕府は関東郡代伊奈半十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、加賀国前田加賀守綱紀に高山城在番を命じた。
伊奈代官は金森氏家臣四家の屋敷を会所として金森氏移封後の事務処理に当たった。
元禄八年(1695)、高山城の取り壊しが始まり、三代高山城主金森重頼の三人の娘が居住していた向屋敷に代官所を移して「高山陣屋」と称した。以降明治維新に至るまで、飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。

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岡山の時鐘堂

岡山の時鐘堂は、江戸時代正徳二年(1712)五代藩主徳川吉宗のとき紀州藩によって設置された。
鐘楼は約6メートル四方の二階建てで、二階の大梁に梵鐘が吊り下げられている。この鐘は藩士の登城や城下に時刻を知らせるもので、二人の番人によって管理され刻限ごとにつき鳴らされた。

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当時は、本町付近にも時鐘屋敷と呼ばれた鐘つき施設があり、ここでも時の鐘がつき鳴らされたと伝えられ、時鐘屋敷は明治以降も時を知らせ続けていたが大正10年の時報廃止と共にその役目をおえた。

時鐘堂の梵鐘は、元和元年(1615)の大坂夏の陣の際に豊臣方が使用した青銅製の大筒を徳川方が捕獲し、紀州藩が保管していたものを、のちに粉河の鋳物師に命じて梵鐘に改鋳させたと伝えられる。

和歌山城跡

1585年、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて虎伏山に創建したのが和歌山城です。
1600年、関ヶ原の戦いの後に浅野幸長が城主となり、城普請を継続しました。1619年、徳川家康の子の頼宣が55万5000石の藩主として入国し城郭の大改修を行います。

岡口門
当初は南東部のこの門を正門である大手門としました。

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連立式天守を持つ和歌山城は御三家の紀州徳川家にふさわしい居城となりました。
城跡全体は史跡に岡口門は重要文化財に指定されています。

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本居宣長旧宅(国指定特別史跡)

この家は本居宣長が十二歳から七十二歳まで住んでいたところで宣長の祖父が隠居所として元禄四年(1691)に建てたものである。

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本居宣長はこの家で医者として仕事をし、古典の講義をしたり歌会を開いたりした。

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鈴屋
広さは四畳半の部屋で勉強や本を書いたりしていました。
二階の書斎は宣長が53歳の時、物置を改造して設けたもので柱に掛鈴を下げていたことから(鈴屋(すずのや)と呼ばれていた。

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宣長さんは「賀茂真淵」先生を大変尊敬していました。
正面の掛軸には「縣居大人之霊位(あがたいのうしのれいい)」と読み、「あがたい」は賀茂真淵のことで「うし」は先生のことです。

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備中松山城

予約していたタクシーの時間まで高梁川周辺を散策し観光センターで地図等を貰い暫し雑談をして情報を仕入れました。

タクシーで鞴峠(ふいごとうげ)まで、ここから歩いて約20分で備中松山城へ。

古くは「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り牛が伏せた姿に似ていることから「臥牛山」と呼ばれている。

「ふいご峠」
備中松山城の御社壇に納められた三振の宝剣をこの場所で作らせ、その為に大きな「ふいご」が設置されていたことから鞴峠との名が付いた。

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多分、「中太鼓丸櫓跡」
かつて御根小屋と天守との伝達手段として使われた太鼓丸櫓、下太鼓丸櫓と中太鼓丸櫓の二つの中継地点を設け、太鼓の合図で連絡を取り合っていた。

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「中太鼓丸櫓跡」からの展望、

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大手門跡
大手門から先には多くの石垣が残っているが、一番目を引くのが大手門の右手にそびえる石垣群、天然の岩盤の上に石垣を築き更に土塀を建てる、

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