知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

史跡

天野の里

和歌山県は標高450メートルに位置し周りを山に囲まれた「かくれ里」、日本の里100撰にも選ばれた「天野の里」に紅葉を見に行こうと案内してもらいました。

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また「歴史の里 天野」は1700年前の丹生都比売神社や1200年前の空海にまつわる史跡が数多く点在します。

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かつては、「高野のかくれ里」と呼ばれた天野盆地には昼前に着いたがマウンテンバイクのハンドルを握る手が手袋がなくては痺れました。

北山十八間戸

鎌倉時代の中頃、僧忍性が不治患者救済のため、北山(奈良の北の山という意)に宿舎を設けたもので、はじめは、般若寺の東北に建立されたが永禄十年に焼けたため、寛文年間に東大寺・興福寺の堂塔を南に眺められて、不幸な人々の養生にふさわしい今の地へ、鎌倉時代の遺風を受け継いで建てられたものである。

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建物は十八の間数のほかに仏間をつけ、裏戸に「北山十八間戸」と縦に刻書がある。

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大正十二年三月三日、慈善事業の遺跡として史跡に指定された。

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飛鳥水落遺跡


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斉明天皇6年(660年)5月、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせました。
精密に堅固に築いた水時計建物と建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置が見つかりました。水を利用した様々な施設があることもわかりました。

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当時の日本は中国の先進文明を積極的に取り入れて律令制に基づく中央集権的な国家体制を急速に整えつつありました。
中国にならい政治や人々の社会生活を明確な時刻制によって秩序づけようとしたことが覗えます。

「天空の城」登山道規制

近年、竹田城跡が脚光を浴び、未明から雲海を見ようと訪れる人が急増し常に混雑や違法駐車が目立つという。
そこで、兵庫県朝来市は登山道での車と歩行者の通行を禁止し、土日曜日と祝日の前日午後6時から翌日の午前8時まで実施する、かわりに麓からシャトルバスを運行するというもの。

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週末は登山道や麓の城下町で渋滞や違法駐車が深刻化したため市は、当面、登山道の通行を禁止し、城跡そばの駐車場を閉鎖した。代替措置として竹田駅近くの停留所から、午前4時30分から同9時まで山腹の山城の郷まで無料でシャトルバスの運行を行うという。

私が竹田城跡を訪れたのが2011年6月19日だった。この頃は7時半頃だったが第1駐車場もガラガラだった。

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無料シャトルバスの乗客と、タクシーと旅行会社、宿泊施設のバス利用者に限り、山城の郷から城跡までの徒歩による登山を認めるという。

星が城跡

星が城跡は、小豆島最高の星ヶ城山にある中世の山城で東峰と西峰に分かれている。

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西峰には、一の木戸、空堀、土壇、曲輪、居館跡、鍛冶場跡、土塁らしき跡がある。
東峰には、天然の湧水や人工井戸、土塁、居館跡、石塁、祭祀跡、舟形遺構がある。

  雑木林に入って霧が立ちこめるなか東峰に向かった。

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  祭祀以降

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  東の出隅方面  (居館跡まで行ってみたが雑木が生えすぎてよく解らない)

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  真夏でも水が涸れたことがない自然湧水を利用した井戸

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  舟形に板状の石が散乱している(舟形遺構)

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備中高松城跡

高松城とは、
備前国に通じる平野の中心地、しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり天正10年(1582)の中国役の主戦場となった。
城は沼沢地に望む平城(沼城)で石垣を築かず土壇だけで築成された土城である。城の周辺には東沼、沼田などの地名に象徴されるように沼沢が天然の外堀をなしていたことが窺われる。

 本丸跡

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播磨三木城と因幡鳥取城の陥落によって織田軍と毛利軍の最前線は備前と備中の国境に前進した。
毛利側の境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を秀吉軍は次々と落としていったが本城の高松城だけは攻めあぐねた。
天正10年5月、秀吉率いる軍勢三万は高松城を取り囲み宇喜多軍なども攻め込むが力攻めすることができなかった。

そこで、黒田官兵衛の進言といわれる水攻めに取りかかった。約2.7キロの堤防を築き足守川水を引き入れ高松城を湖の孤城にした。
6月3日に、毛利方に向かう光秀の密使を捕まえて、信長の死を知った秀吉は、そのことを隠して高松城主清水宗治の切腹を主張して講和を結ぶように説いた。
6月4日、清水宗治は湖上に小舟を浮かべて自刀し、織田方と毛利方の和睦が成立した。

宗治辞世の句
   「 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して 」

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二ノ丸跡あたりを望む

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古来、本丸と二ノ丸の間に蓮池の名が残されており沼の復元によって自然に生えた宗治蓮

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しおまち唐琴通り(牛窓)

岡山城下から牛窓港に至る六里二十八町の道程を牛窓往来といった。

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牛窓が商業地に指定されたことで栄えた寛文・延宝年間(1661〜1680)頃、岡山藩の政治・経済・文化など諸制度が整えられることと関連して整備されたと考えられているとある。

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牛窓灯籠堂跡

瀬戸内海を航行する船舶の航行が頻繁となった延宝年間(1673〜1681)に夜間通航の標識として備前藩主池田綱政の命により建設された。

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出崎の突端の岩盤上に割石積みの基壇を築き、その上に木造の灯籠堂を建ててあったが明治維新後取り壊された。
備前藩が相前後して建設した四ヵ所の灯籠堂のうち残っているのは牛窓と大漂でこの灯籠堂は1988年復元された。

黄葉亭(閑谷学校)

武士の子弟が学ぶ藩校は岡山市内にあった。閑谷学校は庶民の学校として藩主池田光政が「この地は読書・学問するによし」として重臣津田永忠に建設を命じた。

火除山

文庫の西にある丘は学舎学寮から火がでるようなことがあっても講堂などに飛び火しないように人工の山を築いた。

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この火除山の西に学房跡がある。

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現在残されている建物は明治38年私立中学閑谷黌の校舎として建築されたものである。

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現在は資料館として使われている。

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黄葉亭

閑谷学校の東を流れる閑谷川に沿って進むと津田永忠宅跡があり、さらに進むと黄葉亭がある。
来客の接待や教職員・生徒の憩いの茶室として文化10年(1813)に建てられた。

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閑谷学校

校門
閑谷学校の正門で鶴鳴門とも呼ばれる。
学校の建造物のなかで棟に鯱をのせるのは校門だけ、

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校地を取り巻いている石塚の長さは765メートルに及び、南側と東西の石組みは「切り込みはぎ」と呼ばれ他に例がなく備前焼瓦と共に独特の景観を演出する。

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講堂(国宝)
入母屋造り錣葺きの大屋根をのせている、こけら葺きの屋根を作った上に垂木ごと漆をかけた一枚板を張り、その上に備前焼瓦をのせるといった造りで雨水に対する対策がとられている。

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元禄十四年(1701)の完成で、内部は10本の欅の丸柱に囲まれた内室とその周囲の入側からなり外回りを広縁でとりまいている。

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一と六のつく日に四書五経などの講釈、正月の読始めの儀、藩主臨学のときの講釈が行われた。

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閑谷学校石門(特別史跡)

石門は、岡山藩主池田光政が閑谷学校の校門として元禄10年(1697)に立てられた。
門柱の高さは3.80メートル直径0.63メートルであり建立当時は幅員二メートル余りの道を挟んで石門が立っていたが数次にわたる埋め立てによってほとんどが地中に埋もれている。

石門

延宝8年(1680)、閑谷学校の永続をはかるため閑谷村の田畑山林を買い上げ閑谷学校を地主とした。
門の両側には柴垣が設けられ、これより北が閑谷学校の校地となった。
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