知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

史跡

穴太衆積みの石垣

この石積みは「穴太衆(あのうしゅう)積み」と呼ばれ滋賀県大津市の坂本にみられる。

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その特色は加工しない自然の石面を巧みにもちいて石積みの面を構成しており、特にコーナーの整理された自然な美しさと堅固さにある。

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賤ヶ岳

賤ヶ岳の南麓「大音」「西山」の里は製糸業(生糸)の盛んな地方であった。
琴糸や三味線糸は黄色であるがその染色は昔は梔子(くちなし)の実が使われていた。今もこの地方には庭先や畑地には梔子が植えられているとある。

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賤ヶ岳古戦場
「信長公記」によると賤ヶ岳合戦以前天正元年に浅井朝倉方の賤ヶ岳布陣の記録がある。また、「領家文章」には天正元年に「しつかたけの城」とあり賤ヶ岳合戦以前の賤ヶ岳城が確認できる。

1583年、信長の重臣であった柴田勝家と羽柴秀吉がこの賤ヶ岳を中心として信長の後継者争いをし秀吉が勝利し天下取りを決意した戦いだといわれている。

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賤ヶ岳から奥琵琶湖を望む

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余呉湖

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備考: 秀吉方で功名をあげた兵のうち7人は後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。
     福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
     実際に感状を得て数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様とある。

    それ以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた14人の若手武将が最前線で武功を挙げ
    たと記録されている。

清水谷道(小谷城跡)

小谷城の清水谷入口には清水谷を守るため閉鎖するように作られた幅約20メートルの堀があった。

堀から清水谷中央の道が清水谷道であり、浅井家重臣の屋敷等が建ち並んでおり、御屋敷からは急な登り道となり織田軍が最後の小谷城攻撃で攻め登った谷と言われている。さらに登ると三田村屋敷・大野木屋敷と連なり小谷城主郭の最奥の六坊に至る。

清水谷の最も奥に位置していたのが御屋敷で浅井亮政・久政・長政やお市の方とその子供たちの茶々、初、江が暮らした所と考えられている。

御屋敷跡

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備考: 清水谷道の両脇には、磯野丹波屋敷、遠藤屋敷、木村屋敷、山城屋敷、天徳寺等や井筒があったと云えられている。
清水谷の西の山上には山崎丸と福寿丸があった。

山王丸跡(小谷城跡)

京極丸跡
京極氏の屋敷があったと伝えられている、大広間に次ぐ広大な曲輪である。
前面に馬出のように曲輪を配置し、東側に高さ3メートルの土塁を設けその下に四段の曲輪を配置する。清水谷側斜面にも広い曲輪を設けている。

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小丸跡
二代城主久政が引退した後に居住したところと考えられている。天正元年(1573)八月に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により自刀した曲輪と伝えられる。

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山王丸跡
山王丸は四段からなり最頂部に三王権現が祀られていた。高さ5メートルの比較的大きな石により石垣が築かれ枡形の虎口が考えられ規模は本丸を上回る。小谷城絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道が描かれている。

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六坊跡にも行きたかったが尾根を下がった所にあるため熊の出没も考え引き返すことにした。
桜馬場跡あたりまで下ると鈴の音が聞こえた、風のない日は遠くからでも鈴の音が響き聞こえる。

中丸跡(小谷城跡)


御局屋敷跡
本丸の西下(清水谷側)にある曲輪、御馬屋敷跡から続く帯曲輪で本丸を守るために設けられた。
谷から帯曲輪までは何本かの竪堀が配置されている。

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大堀切跡
本丸跡の北にある大規模な堀跡で尾根を大きく削ってある。
番所跡から本丸跡までとその上をくぎるためのものと説明する。

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中丸跡
大堀切跡の北にある曲輪で三段からなる。
石垣はみられるが土塁は設けられていない。虎口を左右に振り分け攻めにくくしている。

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帯曲輪跡
御馬屋敷跡から中丸跡近くまで清水谷側の斜面に幅3〜5メートルの帯曲輪があり、大広間付近には高さ1メートルの石垣が築かれている。
主尾根斜面の曲輪の配置は清水谷側に多く、これは地形が東側は険しく曲輪の必要がなかったためと、清水谷にあった浅井氏の居館や家臣団の屋敷群を守るためである。

本丸跡(小谷城跡)


黒金門跡
大広間入口に設けられた門であり、鉄を打ち付けた門であったと考えられる。

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大広間跡
別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ約85メートル幅約35メートルあり前面に現在は崩れているが高さ4メートル(桜馬場跡)の石垣が積まれており東寄りに黒金門跡がある。
東側には1.5メートルの石垣が築かれ大広間跡には建物跡がある。北東隅には石組の井戸跡と北西隅には蔵跡が確認されている。

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本丸跡
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており鐘丸がその機能を表していると考えられる。
南北約40メートル東西約25メートルの広さを持ち上下二段からなる。
大広間跡側に石垣が築かれ、東西の裾に土塁が築かれている。

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桜馬場跡(小谷城跡)

御馬屋敷跡から登って、

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首据石
黒金門跡の手前にあって、天文二年(1533)一月、初代亮政は六角氏との合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。

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桜馬場跡
御馬屋敷の上方にある曲輪で細長く左右二段からなる。西側の曲輪では建物の礎石が確認されている。

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NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」でロケ地となった桜馬場跡、

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左の虎御前山は織田信長が小谷城攻めの拠点とした。
山本山は小谷の支城、山本山城があった。
丁野山は小谷の支城、丁野山城と中島城があった。
山崎丸跡は清水谷を挟んで向側の山上にある。

お茶屋跡(小谷城跡)

お茶屋跡
番所跡の上にある曲輪で主郭の最先端に位置する。L字型の土塁の内部には小規模な御殿があり、西側には庭が存在したと考えられている。

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馬洗池跡
湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったと云う。
馬を洗った池と解するよりは、桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐ為の水堀と考えられる。

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御馬屋跡
高い土塁が三方を囲んだ構造を持つ曲輪であり、馬屋があったかどうかは意見が分かれる。
本丸跡の前面にあり本丸を守る為の曲輪であり、中央に井戸があったことが確認されている。

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清水谷側(西側)の斜面に本丸跡後方まで幅2メートルの帯曲輪があり、いくつかの堅堀もみられる。

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金吾丸(小谷城跡)

山の雪も溶けたころと思い2月に登らなかった小谷城跡に行ってみた。
今回は番所跡から、

入り口付近にこの看板、万が一のことを思い杖を借りていく。

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金吾丸跡
1525年(大永5年)、六角高頼が小谷城を攻めたとき、越前の朝倉金吾教景がここに布陣したといわれ教景の名乗りを取って金吾丸と名付けられたと伝える。四段の曲輪と土塁からなる。

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石垣の刻印(和歌山城)

和歌山城の石垣のうち2110個に刻印がある。
刻印のデザインは多種多様で家紋やその省略文字であったり方位や日付、人名と考えられるものもある。何のために刻印されたかは諸説がありわかっていない。

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刻印のある石垣が和泉砂岩に限られ、浅野家が城主だった時代(1600〜1619)に修築された石垣にしか使われていないことなどから浅野家の家臣が主家の城普請に協力したしるしとして刻印したという説がある。
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