知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

歴史

宇治橋

千三百年以上も昔、大化二年(646)に初めて架けられたと伝えられる我が国最古級の橋です。その長い歴史のなかで、洪水や地震などの被害はもちろん戦乱に巻き込まれたことも数え切れなく、この橋はその都度架け直されてきました。
ここ宇治が、交通の重要な場所であり、また、宇治橋は、古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術作品に描かれるなど、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきました。

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宇治橋は古くより旅人が行き交わったところ、橋の袂には古くから茶店ができ、旅人をもてなしました。
徳川将軍家のお茶壺道中の一行を茶師たちが迎え、送り出したのもこの場所です。橋上の「三の間」では、毎年10月に行われる宇治茶まつりの「名水汲み上げの儀」が行われます。

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宇治橋より上流を望む

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現在の宇治橋は、長さ135.4メートル幅25メートル、平成8年に架け替えられたもので、木製の高欄に擬宝珠があしらわれるなど、宇治の名所ともなっています。

市ヶ原廃寺の塔心礎

古い寺院跡で残っているのは柱の礎石や屋根の瓦が多い。祐泉寺境内(三島市)にある巨大な礎石は、白鳳時代(645〜710)にこの地から三嶋大社の方向に向けて建てられていたお寺の塔の中心礎石である。

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発掘調査で出土した瓦や礎石の一部から薬師寺式の伽藍配置をもった寺院であることがわかった。そこで、市ヶ原廃寺と名付けた。その塔心礎(塔の中心柱の礎石)は白鳳時代の典型的なものであり、建築様式を知る上で貴重なものである。

白滝公園(三島)

本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。
伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形を持つ魅力的な半島が形作られています。

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およそ10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士山が誕生しました。約1万年前の噴火では愛鷹山と箱根に挟まれた谷を溶岩が流れ下り三島付近にまで到達しました。「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は静岡県三島市北部の大地を作り出しました。また亀裂や隙間の多い溶岩は地下水の通り道となって溶岩の末端付近に沢山の湧水をもたらしています。
湧水は多くのせせらぎを作り出しました。源辺衛川や桜川などの用水も湧水とともに暮らしてきた人々の知恵で沢山の工夫があります。

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白滝公園の中に、表面に亀裂が入った小さな高まりがあります。富士山から流れてきた溶岩が作った溶岩塚という地形です。また、楽寿園を初めとして三島駅周辺には沢山の溶岩塚があります。

主税町長屋門

この門は江戸時代のもので、当時の位置に残る名古屋城下の武家屋敷の長屋門としては唯一のものです。江戸時代主税町付近には尾張藩の中級武士の屋敷がありました。屋敷の一部に門を設けた形式のものを長屋門と呼び、中級武士の屋敷門としては一般的でしたが石高・役職などで規模や形式が違っていました。

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この門に付している出格子付き番所(武者窓)は武家屋敷のみに設けることが許されたものです。門の築年・創建者は不明ですが江戸中期の城下図には平岩氏・幕末の城下図には室賀氏の名前があり、明治時代には第三師団長官舎、昭和22年頃から43年頃までは佐藤氏の屋敷門として使用されていましたが、その後、塀及び長屋の一部が撤去され現在の大きさになっています。

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参道石垣

この石垣は、悠久の昔から変わることなく流れつづける大井川から江戸時代に川越稼業の人足たちが日々の業を終えて帰る際に河原から石一つを持ち帰り蓄積して、この土手(堤)石垣を築いたものである。

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写真は静岡県島田市大井町にある大井神社の参道、

朝鮮通信使

江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全12回の使節を派遣した。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均500人からなる大使節団であったので沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。

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一行は海路瀬戸内海抜け大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の対応は一大行事であった。

お茶壺道中

寛永九年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壺道中、家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壺に、はなはだしく威勢を持たせた。

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宿場では百人の人足を出す定めがあり、多い時にはお茶壺奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壺は各宿場から大いに恐れられていた。
行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたと記録が残っている。

助郷

大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する時もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄七年(1694)に正式に実施されている。

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人馬を提供するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。

飯盛女

飯盛女(飯売女と表すこともある)は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。

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正保・慶安の頃(1644〜51)この飯盛女を置く旅籠が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅籠間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯売女の人数制限を行ったが、効果はなかった。
以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。

人馬継立(岡崎)

旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。

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公用旅行者は無料、半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約150キロ)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや駕籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。
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