知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

歴史

朝鮮通信使

江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全12回の使節を派遣した。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均500人からなる大使節団であったので沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。

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一行は海路瀬戸内海抜け大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の対応は一大行事であった。

お茶壺道中

寛永九年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壺道中、家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壺に、はなはだしく威勢を持たせた。

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宿場では百人の人足を出す定めがあり、多い時にはお茶壺奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壺は各宿場から大いに恐れられていた。
行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたと記録が残っている。

助郷

大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する時もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄七年(1694)に正式に実施されている。

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人馬を提供するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。

飯盛女

飯盛女(飯売女と表すこともある)は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。

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正保・慶安の頃(1644〜51)この飯盛女を置く旅籠が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅籠間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯売女の人数制限を行ったが、効果はなかった。
以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。

人馬継立(岡崎)

旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。

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公用旅行者は無料、半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約150キロ)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや駕籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。

三度飛脚(岡崎)

伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現代でいう郵便配達人にあたり、預かった通信書状などを入れた箱を担ぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。

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飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、寛文三年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた。

塩座(岡崎藩)

塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。
矢作川を上る塩舟は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もありしばしばトラブルもあった。

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上がってきた塩は審査の後、馬に乗せ替えられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶屋、魚座、煙草株などがあるが、商いをする者は座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。

旧商工会議所

大正六年、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。
戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は岡崎信用金庫資料館として一般に開放されています。

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郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

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岡崎宿三十六町二十七曲り

田中吉政(1548〜1609) 岡崎城主(1590〜1600)
当時、管生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。

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東海道は鎌倉時代になって京都から二十六番目の宿が矢作宿であり、十四世紀末東矢作岡崎郷が明大寺に出現しました。
天正十八年(1590)、田中吉政が岡崎に入城し、城下町の建設にとりかかり乙川の南岸を通っていた東海道を城下に導き入れ、矢作橋の架設に着手しました。慶長六年(1601)本多康重が城主となり田中吉政の城下町建設を引き継ぎ矢作橋を完成しました。

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慶長十二年の大洪水によって八町の町民を城東の台地に移し、伝馬町を新設し続いて連尺町・篭田町両町も作られ町並みがほぼ完成し「岡崎宿三十六町二十七曲り」と言われるようになりました。
城下の町角を多くしたのは防備の必要からですが町並みを長くして商家の賑わいを招く利点も考慮したものと考えられる。

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大仏殿石垣

「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。
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現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣、

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