知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

歴史

三度飛脚(岡崎)

伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現代でいう郵便配達人にあたり、預かった通信書状などを入れた箱を担ぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。

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飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、寛文三年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた。

塩座(岡崎藩)

塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。
矢作川を上る塩舟は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もありしばしばトラブルもあった。

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上がってきた塩は審査の後、馬に乗せ替えられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶屋、魚座、煙草株などがあるが、商いをする者は座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。

旧商工会議所

大正六年、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。
戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は岡崎信用金庫資料館として一般に開放されています。

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郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

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岡崎宿三十六町二十七曲り

田中吉政(1548〜1609) 岡崎城主(1590〜1600)
当時、管生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。

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東海道は鎌倉時代になって京都から二十六番目の宿が矢作宿であり、十四世紀末東矢作岡崎郷が明大寺に出現しました。
天正十八年(1590)、田中吉政が岡崎に入城し、城下町の建設にとりかかり乙川の南岸を通っていた東海道を城下に導き入れ、矢作橋の架設に着手しました。慶長六年(1601)本多康重が城主となり田中吉政の城下町建設を引き継ぎ矢作橋を完成しました。

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慶長十二年の大洪水によって八町の町民を城東の台地に移し、伝馬町を新設し続いて連尺町・篭田町両町も作られ町並みがほぼ完成し「岡崎宿三十六町二十七曲り」と言われるようになりました。
城下の町角を多くしたのは防備の必要からですが町並みを長くして商家の賑わいを招く利点も考慮したものと考えられる。

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大仏殿石垣

「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。
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現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣、

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方広寺鐘銘

当時の方広寺敷地は広大なもので、妙法院や現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、三十三間堂南に遺る太閤塀や南大門(秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。

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高さ4.2メートルの大きな梵鐘の銘文の一部に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていたのが家康の怒りに触れ、その後の方広寺と豊臣家の数奇な運命が始まるのはあまりにも有名な歴史の出来事です。「国家安康」「君臣豊楽」を「家康の名を引き裂いて呪詛するもの」 といいがかりをつけたされる。

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この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19メートル)の大きさであったという。また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われ、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠」で造られた(『太閤記』)。この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる。

南大門と太閤塀

南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺(現国立博物館一帯)の南門として築いたと伝えられています。

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それに続く築地塀は高さ5.3メートル長さ92メートルの堂々たる建造物で、瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、ともに桃山気風にあふれた遺構です。

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後白河上皇院政庁址碑

法住寺殿は、保元3年(1158)8月、その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が約30年にわたり院政(上皇が天皇に代わって政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。
上皇になると天皇の住まう御所とは別の所に専用の「院御所」を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き、その度に大規模な土木工事が行われました。後白河院は上位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、その名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。

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構内は政治的な施設の「北殿」と常の御所と呼ぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿」に別れ、東山を背にする丘陵の地中から湧き出たような大建築が甍を並べたといいます。
永暦2年(1161)4月、月明かりの夜に上皇はここに移り以後20年住まいとします。しかし、賑わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183)11月、対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。

「耳塚(鼻塚)」

この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(1592〜1598)にかかる遺跡である。

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豊臣秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と想われる。
豊臣秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として今に伝えている。

岩本実相寺

二王門

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一切経蔵

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一切経とは、経典の総称のことで、この経蔵内には宗版一切経が四巻・天海版一切経六千百七十四巻が収められていました。

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相模湾を望む

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富士山

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一切経の言語は梵語(サンスクリット)によるものと、パーリ語によるものとがある。中国、蒙古、チベット、朝鮮、日本に広まった北方仏教がサンスクリット経典を基本としたのに対して、スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア等に広まった南方仏教はパーリ語を基本としている。
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