知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

名勝

楽寿館

6万屬砲よぶ楽寿園は、小浜池を中心とする富士山の基底溶岩流の末端にあるという溶岩地形と、その溶岩中から数ヵ所にわたって地下水が湧出している現象が天然記念物として指定されている。
また、それとあわせて特殊な地形・地質に人工を加えて生み出された固有の美観が、名勝として指定されている。
しかし、昭和30年代から環境変化の激しい国土の中で湧水現象が変化しつつあり検討中である。

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明治23年に小松宮彰仁王の別邸がここに築かれ、その後、明治44年李王世殿下の別邸、昭和に入って個人の所有となったが昭和27年三島市立公園「楽寿園」として公開された。
この建物の建築様式は、全体的に京風の数寄屋造りで、今では数少ない明治時代中期の貴重な建築物である。建築用材も吟味されており、現在では入手困難なものも少なくない。特筆すべきは、応接用の部屋であった「楽寿の間」の装飾絵画である。幕末から明治にかけての一流の日本画家の競作が一堂に集められており、県指定文化財となっている。

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小浜池
昭和37年以前は常に満水の状態でしたが、渇水した状況が1年のうち大半を占めるようになっています。
昭和30年代中頃からの高度経済成長により周辺環境が変わり(人口増加・工場の増加・道路の舗装・河川工事・田圃の減少・山林伐採等)様々な原因が重なり小浜池は現在の姿となっています。
例年、梅雨時から11月頃まで水が湧くことがあり、富士山の積雪や台風・梅雨時に雨が多いと湧水することがあります。
7〜8年に一度満水になると言われています。150僂魃曚┐襪繁水と案内し、水底の溶岩が綺麗に見ることができます。

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楽寿園

楽寿園は三島駅南口正面に位置した約75.474屬亮然豊かな公園です。

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楽寿館入口
楽寿館は京間風の高床式数寄屋造りの建物で、館内にある野口幽谷など6人含む明治を代表する日本画家による装飾絵画は静岡県の文化財に指定されています。

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朝鮮燈籠
李王家が朝鮮半島から持ってきたとも、献上されたとも言われている。

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縄状溶岩

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楽寿燈籠

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鞍馬燈籠

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小堀遠州作庭園(頼久寺)

天柱山 安国頼久禅寺
臨済宗永源寺派に属し、足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一寺である。境内には寺号になった中興の開基松山城主上野頼久、戦国期織田信長の中国制覇と毛利一族の中央進出戦いである備中兵乱で天正三年(1575)悲運の死をとげた備中松山城主三村元親、一子勝法師丸等の墓がある。

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小堀遠州
天正七年(1579)、近江国小堀村生まれる。幼名を作助といい、長じて政一と称した。父の逝去後、松山城を預かり備中の国政を司る。
茶道、建築、造庭の巨匠として名を馳せ、駿府城普請奉行を務め従五位下遠江守に叙任され、以後遠江にちなんで遠州と通称される。
備中松山城を再建し、他に名古屋城天守、後陽成院御所造営等の作事奉行を務める。
幼少の頃から茶道に励み、宗甫、孤篷庵と号し「きれいさび」を確立し後世に影響を与えた。

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この庭園は小堀遠州の作庭で、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。

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鶴島は石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。
このような築庭様式は桃山から江戸初期に好まれたもので現在まで旧態のまま保存されている。

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       頼むこと 久しき寺の 林泉に なびくいみじき 秋の霧かな
                                        与謝野晶子

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岡山後楽園


岡山藩主池田綱政が家臣津田永忠に命じて貞享4年(1687)に着工し元禄13年(1700)に完成した。

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 延養亭

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 廉地軒

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 唯心山から

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 沢の池

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後楽園は藩主の静養の場であり賓客接待の場として使われていたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていたという。

衆楽園(旧津山藩別邸庭園)


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津山藩主森長継が明暦年間(1655〜1658)京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた大名庭園、津山藩では防衛上、他藩の使者を城内に入れずここで対応したので御対面所と呼ばれていた。

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この庭園は京都の仙洞御所を模したもので南北に長い池に大小四つの島を配し周囲の中国山地を借景とした構成は近世池泉回遊式庭園の典型であり江戸時代初期の大名庭園のおもかげを残しているといわれている。

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その後、森氏に代わって入封した松平氏に引き継がれたが明治三年、時の藩主松平慶倫が衆楽園と命名して公園として一般に公開した。

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明治四年の廃藩後、多くの建物が壊され規模も縮小して、偕楽園また津山公園と改称されたが園地の主要部分は残り大正14年再び衆楽園と改称されたとある。

近水園(おみずえん)

旧足守藩主木下氏の庭園で、旧藩邸(陣屋)の背後に続く宮路山(御殿山)の麓に造られた池を中心とした地泉回遊式の庭園。

近水園

近水園

近水園

吟風閣

第6代藩主家定が、宝永5年(1708年)京都の仙洞御所を造営した際、その残材で建築したと言われる建物である。

吟風閣

近水園

西ノ丸庭園(和歌山城)

この庭園は、紀州徳川藩祖 頼宣公が、西ノ丸御殿に築造したもので紅葉渓の名で親しまれてきた。

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虎伏山の山稜を利用した起伏の変化に富んだ庭園で南西の高地には三つの滝と、その落水を導く渓流、出島と巨大な舟石が浮かぶ池、柳島のある堀池からなり、斜面や護岸には紀州の名石で石組が施されている。

 鳶魚閣(えんぎょかく)
堀池に4本の花崗岩による石柱を立て造営された木造宝形造り檜皮葺花頭付き釣殿風の建物、

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