知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

泉頭城址

泉頭城は、北条氏が柿田川上流部東側の自然の川を堀として利用し、築城したといわれているが、豊臣秀吉の小田原攻めの時に廃城となった。
徳川家康は、親しみのあった泉頭の地を、側近の以心崇伝が記した「本光国師日記」にも記されているように、元和元年(1615)の年末に隠居所として決定した。

〈 徳川家康が求めた幻の隠居所 〉

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しかし、家康が縄張りのためにこの地を訪問する予定まで決まっていたにもかかわらず、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更された。

しかみ像(徳川家康)

世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい自画像です。

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元亀三年(1572)十月三日、27000の大軍を率いて甲府を出発した武田信玄は遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、十二月には徳川家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。自戒の像である「しかみ像は、やがて戦乱の世を統一し世界にかん冠たる平和国家を創り上げる礎にんったと云われる。

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鐘櫓(福山城)



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鐘櫓
本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り太鼓を懸け、時の鐘と半時の太鼓をうっていたといわれる。石見国(島根県西部)大森銀山の応急監督を命ぜられ、人数をくりだす必要があったためという。
鐘は儒者山室如斉、菅茶山の銘を刻んだものもあったが、現在は無名である。

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備考
元和5年(1619)徳川時代の臣、水野勝成が備後10万石の領主となり、ここ福山に城を築いてから福山の城下町としての歴史は始まり、その後、水野氏5代、代わって松平氏1代、阿部氏10代と廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心となりました。
明治6年廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋鉄櫓、御湯殿を除いて、ほとんど取り壊されました。
昭和20年の戦災により天守閣と御湯殿を焼失しました。幸い焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は昔日の姿を止め国の重要文化財に指定され、城地は国の史跡として保存されている。

月見櫓(福山城)

月見櫓
月見櫓はもと京都伏見城内にあったものを移築したものです。本来は着見櫓のことです。
追手側も入江方面展望できる南西隅に築かれ、藩主等の到着を見極める役割をなしていました。1階南面に石落としがあり、古い建築様式で、明治初年に取り壊されたが昭和41年に天守閣とともに外観復元されました。

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天守閣
福山城の城郭は南面し、天守閣は本丸の北隅に位置している。五重六階地下一階、別に二重三階の付櫓をもつ複合天守で、外見は六重のように見えます。

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一重目の南北面と二重目の東西面は比翼入母屋、その他の各層には千鳥破風や唐破風を設けている。
城号は敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城といい、別名を葦陽城ともいう。

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筋鉄御門(福山城)

竹原からの帰り、時間があったので福山で途中下車して福山城と周辺を散策しました。
この階段を登っていると散歩していた地元の人が福山城の歴史を教えてくれました。

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筋鉄御門
桁行10間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺の脇戸付櫓門で伏見櫓と同じく伏見城から移築されました。
下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋金を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、強固な造りとなっています。

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御湯殿

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京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていました。
建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間とにわかれていました。昭和20年の戦災により焼失しましたが、昭和41年秋に、天守閣とともに外装、内部ともに復元されました。

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福山城

いつも「知音の旅人」へ、 ありあとうございます。
次回からの更新は福山城から高野山へと進みますが、4月26日(日)まで休みます。

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伊予松山城

松山城は松山平野の中央に位置する勝山を中心に築かれた平城で、山頂に本丸が南西の山麓に二之丸や堀と土塁に囲まれた三之丸が配されています。

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松山城の築城は、関ヶ原の戦いでの活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって始められ築城にあわせて勝山の南を流れていた湯山川を付け替え、三之丸と城との周囲に侍町をその外側に町人地を置き、さらに勝山の北側にある御幸寺山の山麓に城を防備するために寺町を置きました。

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加藤嘉明は正木城(伊予郡松前町)から慶長8年10月に新城下に移りました。この頃から松山と呼ばれるようになったと伝えられています。
城の完成は寛永4年に嘉明が会津へ転封された後、蒲生忠知によると伝えられ、忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松平家の居城となりました。

伊予松山城本丸

松山城本丸は城の防衛上最後の砦となる郭で、高さ10メートルを超える高石垣に囲まれ、南北300メートル東西約30〜180メートルという規模を誇っています。

本丸北側には、城の中心である連立式天守の本壇が配置され、南側には大手(正面、表口)である大手門、北側には搦手(背後、裏口)である乾門があります。乾門付近には、乾櫓や野原櫓という城内で最古の櫓が残されています。

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本壇
本丸の北側に位置し、天守、小天守などの城の中枢となる建物が配置されています。

本丸広場より更に8メートル高く築かれ、出入口は一ヵ所に限定されるなど防備は厳重で天守は更に4メートルの高さの石垣の上に構築されています。本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓などで接続されています。

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紫竹門
本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付き高麗門で、本壇北側にあった中仕切門とあわせ搦手を固める重要な門です。
小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名がつけられ、扉の上下は竪格子となっており、そこから外を覗き見る工夫がなされています。

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艮門
艮門と同東続櫓は、本丸の北東に配置された脇戸付きの櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っています。
また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割を担っていたと考えられています。

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松山城の石垣
「登り石垣」の石材には、主に花崗岩が使用され隅部はほとんどが算木積みで、本丸を囲む高石垣は高さ10メートルを超える扇勾配と屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折が特徴です。

加藤嘉明による築城時(慶長七年)の典型的な石垣が残され、その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積です。

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本壇の石垣は北側と南側で異なり、北側は時期は不明であるが打込ハギ布積で、隙間に合わせて加工した間詰石が詰め込まれている特徴がみられ、南側は嘉永年間(1848〜1854)天守などが再建された際に、新しく積み直され、充分に手間をかけた切込ハギの布積で隙間のない整った外観となっている。

井戸(伊予松山城)

本丸の太鼓門櫓前にある井戸
築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ石を積み上げて造られたと伝えられています。
深さは44.2メートル、水深は9メートルあり、戦前までは釣瓶が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。

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上屋は戦災で焼失したため城内で初めて再建されました。

井戸には、
   1.底がない
   2.天守と二ノ丸への抜け穴がある
   3.大こうもりがいる
   4.水を綺麗にするため大判・小判が投げ込まれている
などの言い伝えがありましたが、いずれも真実でないことがわかっています。

巽櫓(伊予松山城)

太鼓門
本丸大手の正門と位置づけられている脇戸付きの櫓門で巽櫓や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。

残念ながら1945年の戦災で焼失したため、門は欅、階上は栂で復元されました。

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巽櫓
本丸の南東に位置する二重櫓で、一重目南面に千鳥破風が付けられています。太鼓門と一体となって防衛線を構築しています。
巽櫓西塀は長さ7.82メートルで6ヵ所の狭間が設けられています。これも1945年の戦災で焼失したため復元されました。

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太鼓櫓
本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は巽櫓・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7メートル)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。
築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落や突揚戸などが改変されたが同じく戦災で焼失しました。

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