知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

巽櫓(伊予松山城)

太鼓門
本丸大手の正門と位置づけられている脇戸付きの櫓門で巽櫓や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。

残念ながら1945年の戦災で焼失したため、門は欅、階上は栂で復元されました。

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巽櫓
本丸の南東に位置する二重櫓で、一重目南面に千鳥破風が付けられています。太鼓門と一体となって防衛線を構築しています。
巽櫓西塀は長さ7.82メートルで6ヵ所の狭間が設けられています。これも1945年の戦災で焼失したため復元されました。

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太鼓櫓
本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は巽櫓・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7メートル)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。
築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落や突揚戸などが改変されたが同じく戦災で焼失しました。

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隠門(伊予松山城)

筒井門
筒井門と隠門は本丸大手の重要な固めで、城内で最も堅固な建造物の一つです。
筒井門は脇戸付きの櫓門で、慶長年間(1596〜1615)の築城に際し、正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられる城内最古の建物の一つでした。

門の棟木裏には、「慶長七□□年四月マサキヨリウツス也」と墨書きされていました。放火により焼失しましたが復元されました。

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隠門
この門は正門である筒井門の奥の石垣に隠された埋門(うずみもん)形式の櫓門で、戸無門を通過して筒井門に迫る寄手の側面を急襲する策略が秘められています。
欄間は戸無門同様の格子欄間で、2階は筒井門東続櫓と隠門続櫓とを結ぶ渡櫓となっています。

慶長年間の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。
これを過ぎると太鼓櫓と巽櫓に進みます。

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筒井門西続櫓と同東続櫓は筒井門の両側に設けられた平櫓で筒井門・隠門とあわせて大手の防備を担っています。

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隠門続櫓は隠門2階の渡櫓の東側に接続する平櫓で、長者が平(なる)からの登城道を監視する目的で揚木戸門前の本丸石垣の上に建っています。
平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。

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伊予松山城(戸無門)

二ノ丸から本丸へ
黒門口登城道は慶長年間に造られ二ノ丸から本丸への通路であった。

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大手門跡

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中ノ門跡
大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが明治時代に取り壊されました。
この門を設けることで、攻めてきた寄手は門を通りすぎて直進する者と戸無門へ行く者に分かれますが直進した者は乾門下で行き止まりとなります。
太鼓櫓から乾門へ続く石垣は屏風折と呼ばれ石垣が屈折しています。これは寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃できる横矢掛といわれる防衛上重要な構造となっています。

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戸無門
この戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので創建当初から扉を持たなかったものと考えられます。
建築年代は明らかではないが、寛永から正保年間(1624〜1648)の建立と推測されています。また、寛政12年に立て替えられたことを示す棟札が残されています。

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松山城二ノ丸史跡庭園

伊予松山城二ノ丸史跡庭園
松山城の二ノ丸は本丸を防備する為の施設で南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ塀によって周囲が囲まれていました。

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二ノ丸邸は、蒲生忠知の時代(1627〜1634)に完成し明治5年の火災によって焼失しました。

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この二ノ丸史跡庭園は、表御殿跡と奥御殿跡とに大別され、表御殿跡は北半分にある「柑橘・草花園」で各地のカンキツ類や草花で昔の部屋の間取りを表現し、奥御殿跡は西南部にある「流水園」で水と砂利と芝生で昔の部屋の間取りを表現しています。
また、林泉庭は露岩を背景にした池・滝を配置して「わび」「さび」を表現しています。

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松山城山樹叢
標高132メートルの城山は、加藤嘉明が慶長7年に築城を始めた頃は禿げ山であったがアカマツが植林されて山一面を覆い松の山になったと伝えられる。
現在はアカマツがツブラジイなどの勢いに負けて数少なくなっている。

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ツブラジイの群落に混じって、クスノキ、アラカシ、ホルトノキ、アベマキなどの大木が茂っている。その林の下にはアオキ、タラヨウ、ヤブニッケイ、シロダモ、などの照葉の常緑樹があり、さらに、その下にはいろいろなシダ類も見られる。
また、ここにはシノノメザクラ、ヤマザクラ、ソメイヨシノなどの桜も多い。種子植物、シダ類を合わすと約550種の植物が繁茂している。

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黒門口登城道、二ノ丸跡から本丸まで約20分の登り坂、

伊予松山城

松山城は慶長7年(1602)に加藤嘉明によって築かれた城郭で、本丸をはじめとして二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、東郭、北郭によって形成されており、三ノ丸は藩の主要な施設と中上級武士の屋敷が配されていました。

 三ノ丸跡

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黒門口登城道は三ノ丸から二ノ丸、本丸へと続く大手登城道で三ノ丸からの入口となる黒門周辺は、特に堅固な構えで、わずか100メートル程の間に黒門、栂門、槻門と五度の屈曲が連続し、門には番所が設けられていました。
また、黒門と栂門の間には腰掛が設けられていました。

黒門跡

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備考 腰掛は藩士が登城する際にお供の者を待たせていた建物
    黒門には古文書によると、門の屋根には「矢切」という「忍びがえし」が備えられ、門の左右の石垣
    上には石落や狭間などが備えられた渡塀が続いていたという。

大坂城代々城主(参)

徳川家康の台頭
慶長4年(1599)3月、豊臣秀吉の居城であった伏見城を自分の居城として、また、同年9月9日、秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため伏見から大坂城に入城します。

この頃、北の政所は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し京都の高台寺に移り住んでしまいます。家康はお祝いが済んでも伏見に帰ろうとせず、西の丸に居座ります。

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慶長5年2月、徳川家康は西の丸に天守閣の築造工事を開始します。姫路城の天守閣は大天守を中心に小天守がある造りになっていますが、この時の大坂城は本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つあることになります。

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徳川家康と石田三成の対立
西の丸に天守閣を建てた家康に石田三成などが対抗します。慶長5年(1600)、関ヶ原で家康の東軍と三成の西軍がぶつかり、家康が勝利します。
慶長8年、征夷大将軍に任じられた徳川家康は江戸に幕府をひらきます。

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第5代城主 松平忠明
幕府は大坂夏の陣で灰になった焼け跡を整理し、伊勢亀山5万石の領主だった松平忠明を大坂城主に起用します。忠明の母は家康の長女亀姫で家康から見ると忠明は孫にあたります。

備考 大阪堺市の南宗寺境内に徳川家康の墓があります。云い伝えによると、大坂夏の陣の折、豊臣
    方の武将(後藤又兵衛の説あり)が家康本陣近くに攻め入り、慌てて籠で逃げる家康を槍で刺し、
    虫の息で堺に辿り着いた家康はそこで息絶え南宗寺に葬られたと、

    それを裏付けるものとして、元和9年(1623)7月に第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光が
    8月に南宗寺を訪れているという。
    明治期に旧幕臣山岡鉄舟も南宗寺を訪れ家康の墓の横に「無銘ノ塔 家康諾ス」と刻んだ石碑を
    残している。
    決定的な確証はないが可能性はあるのではという説も残っている。

大坂城代々城主(弐)

第3代城主 羽柴秀吉
秀吉は柴田勝家を破り、名実ともに信長の後継者となります。天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。

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秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年9月1日から工事を開始します。
天正13年に一期工事が終了します。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)でした。約15年に及ぶ工事は、想像を絶する力の入れようでした。

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豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり千利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
下水道は現在でも使用され、建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。

本丸があった場所は、「豊臣時代大坂城本丸図」によると現在の天守閣がある東北約100メートルの処にありました。

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第4代城主 豊臣秀頼
秀吉の死後、子の秀頼が後を継ぎ第4代大坂城主に就きます。秀頼は年が若く、秀吉のような影響力がないため、五大老のひとりである徳川家康が次第に勢力を拡大させます。同じく五大老のひとりであった前田利家が亡くなり、ますます徳川家康の力が強大化していきます。

大坂城代々城主(壱)

初代城主 〜 織田信長
天正8年(1580)8月、石山合戦に勝利した織田信長は石山本願寺跡地に城郭を築きます、それが大坂城です。
この時の大坂城は後世と比べ規模が小さく本願寺の遺構に応急処置を加えただけの城郭に過ぎませんでした。

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織田信長が大坂城の初代城主となり、重臣の丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。
天正10年6月、本能寺で明智光秀に襲撃を受け、信長は最期を遂げ、それまでの2年間、大坂城の城主は織田信長でした。

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第2代城主 〜 池田恒興
天正10年6月27日、信長の家臣たちが清洲城に集まり、遺領配分を決める会議を行い、結果、池田恒興が摂津国を領することになり大坂城主に就任します。
その後、池田恒興は豊臣秀吉に仕え大垣城主となり大坂城主は1年未満でした。小牧長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康が対戦した時には、秀吉方につき長久手の合戦で討ち死にします。

大坂城の歴史

大坂城の前身に石山本願寺がありました。明応五年(1496)本願寺8代法主蓮如が石山御坊という隠居寺を建てたのが始まりと云われています。山科石山本願寺本坊が徐々に大坂に移されることになり、城郭の造りを形成し石山本願寺と呼ばれるようになりました。

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11代法主顕如の時、織田信長から「石山本願寺の明け渡し」を要求され、織田信長に抵抗し戦となります。元亀元年(1570)から実に10年間に及ぶ石山合戦が起こり、天正八年(1580)に信長に降参することになります。

明け渡し直前に不審火により、三昼夜にわたり炎上し城郭であった御坊は全焼してしまいます。この石山本願寺の炎上が1回目の炎上で、この時、もっとも大きな抵抗勢力を退け勝利した織田信長は、この後、天下統一の礎を築いていくことになります。

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天正八年(1580)八月、石山合戦に勝利した織田信長は石山本願寺跡地に城郭を築きます。これが大坂城です。
しかし、この時の大坂城は後世の城とは規模が違っており、石山本願寺の遺構に応急処置を加えただけの城郭に過ぎませんでした。
信長が大坂城の初代城主となり、重臣の丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。天正10年(1582)6月、本能寺で最期を遂げるまでの2年間、大坂城の城主は織田信長でした。

大坂城 極楽橋

山里丸と二の丸を結ぶ橋で豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。

江戸時代には幅約8メートルの木造で、慶応4年に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが97年後の昭和40年に再架橋された。
戦国時代この地にあった浄土宗本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

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秀頼・淀殿ら自刃の地
慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
平成9年、現在の山里丸の一画に記念碑が建てられた。

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