知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

城(跡)

北ノ庄城

北ノ庄城は柴田勝家が築いた城で九層の天守閣が天高くそびえていたといわれる。その立派な城も天正11年(1583)4月、羽柴秀吉に破れた勝家は、自ら火を放って婦人のお市の方とともに、壮烈な死をとげ消失した。

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   柴田勝家
       夏の夜の夢路はかなきあとの名を
                雲井にあげよ山ほととぎす
     (夏の夜のように短くはかない私の名をのちの世にまで伝えてくれよ山ほととぎす)

   お市の方
      さらぬだに うちぬる程も夏の夜の
                別れをさそうほととぎすかな
     (夏の夜のほととぎすの鳴き声が別れの悲しさをさそっているように聞こえる)

天守閣跡(福井城跡)

写真は福井城の天守閣跡である。福井城はもと北ノ庄城を稱ぜられ、慶長6年福井藩祖徳川秀康を改築して天守閣を築いた。以来、明治維新まで約260年間、当城は福井藩主松平家の居城であった。

福井城天守閣跡

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福井城跡

福井城は慶長6年〜11年に徳川家康の次男、結城秀康によって築城されまいた。秀康時代の福井城の建物は寛文9年(1669)消失しましたが図は消失以前の福井城本丸の様子を復元したものです。
藩の権威を象徴していたのが本丸の北西隅に聳えていた天守で、高さが約30メートルという壮大な建物でした。

巽櫓跡

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福井城瓦御門御本城橋

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福井城本丸
中央には藩政において最も重要な本丸御殿がありました。北東・南東・南西の各隅には3つの櫓が建っていました。南側の御本城橋が本丸への正式な通路で、この橋を渡ると本丸の正門である瓦御門がありました。
西側には屋根付きの御廊下橋も掛かっていました。

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結城秀康公

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、越前68万石の大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、翌6年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設と柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手した。
多くの民の力と汗に支えられ、およそ6年の歳月をかけて完成した城下は、都市としての福井の原型をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。

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蟠龍櫓

桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されている。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。
歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうち最も古いとされる正保年間(1644〜48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図絵」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。

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「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖龍として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いています。蟠龍櫓についても航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。

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刻印石(桑名城跡)

桑名城跡の管理事務所東に「刻印石」が5つあります。城の石垣の石にはさまざまな模様や記号が刻まれています。
これを「刻印」といい、刻印は築城に係わった関係者による家紋、家印、符丁、石の産地などを示したものです。

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刻印石は和歌山城や大坂城などでも見ることができます。

本多忠勝(徳川四天王・初代桑名藩主)

本多氏は古くから三河松平家に仕えた家柄であった。天文17年(1548)生まれの本多忠勝は6歳上の徳川(松平)家康の将として旗本の兵を束ね、大活躍を続けた武将である。
13歳で桶狭間の戦いに従軍してから53歳の関ヶ原の戦いに至るまで、主君家康の重要な戦いのほぼすべてに参加した忠勝は、のちの世になっては幕府の基礎を固めた人物として「徳川四天王(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政」の一人に数えられる。

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元亀1年(1570)徳川家康が織田信長に従い浅井・朝倉と戦った姉川の戦いでの勇猛果敢な突撃、また、元亀3年(1572)、武田信玄と戦った三方原の戦いでの奮闘ぶりが有名で、三方原では武田方から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(家康の兜 中国から輸入されるヤクという動物の尾で飾られた)に本多平八(平八は忠勝の通称)と称賛されている。
さらに天正12年(1584)、羽柴(豊臣)秀吉と対決した小牧・長久手の戦いにおいては、秀吉の大軍をわずか500の小勢で挑発、その堂々たる態度は、のちの秀吉をして「西の立花宗茂、東の本多忠勝」「天下泰平になれば忠勝に若者たちの武道教育をさせよう」と嘆賞せしめた。

神戸櫓跡(桑名城跡)

戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったとされる。織田信長の伊勢侵攻の時、伊藤氏は降伏し東城は廃されたものと考えられる。

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文禄の頃(1592〜1596)、一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、其の時伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したと云われている。
江戸時代、初代藩主本多忠勝は城を拡張し、本格的な近代城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓としてそのまま残され「神戸櫓」と呼ばれた。

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桑名城城壁

正面の堀川東岸(三の丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500メートルが現存し、市の文化財に指定されている。

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積石の状態は乱積みで、野面はぎ、打込はぎの二方法によており、また刻印を刻んだ積石も多く見かけられる。片町に面したところには出隅、入隅があった。各所に堀川に向かって狭い通路が設けられているのは、明治以降、廃城になってから便宜上付けられたものと考えられる。
戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋め立てられた。この城壁には老松が並木を作り枝は堀へ垂れ川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった。

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金剛山

9月25日(火)、金剛山へ登ってきました。といっても往復ロープウエイを利用しました。

金剛山ロープウエイ千早駅

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金剛山駅

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金剛山は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にある山。かつては高間山・高天山や葛城嶺といわれていた。金剛山地の主峰である。

標高1125メートル、最高地点は葛木岳といい、御所市の葛木神社の本殿の裏にあるが、神域となっており立ち入ることはできないため、国見城跡の広場が山頂扱いされている。

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国見城跡

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