「I can kill you」と言いました。
「殺すぞ」ではなく「殺せるぞ」と言ったのです。

富田由美さん(仮名)は、高校の下校途中に米兵に性暴力を受けたが誰にも話すことができなかった。
約10年後の1995年米兵による少女暴行事件が起きたのがきっかけで「私自身が警察に届け出なかった。警察に行っていればみんなが危険を知って気を付けることができたかもしれない。そうすれば小学生の事件は起きなかったのではないか」と自分を責め続けた。

1996年、大学で若い世代として沖縄に関する講演をしたとき、体験を初めて話した。
「これから一緒に働いていく若い人たちに正直に話したかった」 会場は質問も出ないほど静まりかえり、泣き出す人もいた。
富田さん自身も「話してよかったという思いと、ほんとうに良かったのかという思い」が格闘した。
「再び被害者を出したくない、証言が基地撤去につながるのなら」その気持ちが背中を押したという。

富田由美さんは沖縄県知事宛に手紙を書いた。
一部、抜粋する。

『1995年9月に米兵による少女暴行事件から10年、去る7月3日、またもや米兵による少女に対するワイセツ行為事件が起こりました。いったいいつまでこんなことが続くのでしょうか。いったい何人の女性が犠牲になれば、気がすむのでしょうか?

私は被害者の一人として訴えます。私は、高校2年生のときに米兵によるレイプを受けました。学校帰りにナイフで脅され、自宅近くの公園に連れ込まれ3人の米兵にレイプされたのです。本当に怖かった。「もう終わりだ、自分は死ぬのだ」と思いました。
何度叫ぼうとしても声も出せずにいました。

あれから20年以上の月日が流れたいまでも、私は事件による心の傷に苦しんでいます。被害者にとって、時の長さは関係ありません。被害を受けたその瞬間から命の尽きるまで、まるで寄せくる波のように苦しみが押し寄せて来るのです。それは穏やかな波のようなときもあれば、嵐のように荒れ狂うときもあります。しかし、心の傷がなくなることはないのです。

今回被害にあったのは、まだ小学生です。被害にあった女の子の気持ちを考えると、いても立ってもいられなくなります。どれほど恐ろしかったことでしょう。私は基地を押し付けようとするすべての人に書いたのです。「あなたのお子さんであったならどうされるのでしょうか?」と。

稲嶺知事、こんなにも多くの被害が起こる原因はいったい何でしょうか。私達「被害者」が「沖縄人」がいったい何をしたというのでしょうか。基地があると言うだけで、朝から子供を遊びに出すこともできないことが、私達の望む沖縄の姿なのでしょうか。
米兵たちは今日も我が物顔で、私達の島を何の制限もされずに歩いています。仕事として「人殺しの術」を学び、訓練している米兵が、です。』



強姦のうえ殺された女性は数多くいる。また、被害者が告発せず表に出ていないレイプ事件はどれほどにのぼるのだろうか。
1945年以降、レイプ事件のなかった年はあるのだろうか。
多くの事件が容疑者不明となっている。