三原城を築城した小早川隆景は、戦国随一の智将として知られ、城下づくりにも知恵者ぶりが大いに反映されています。
まず、三方を山に囲まれ、南に瀬戸内海が位置する沼田川河口の大島、小島を石垣で結んで城を築き、外部からの侵入を防ぐ措置を図りました。

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次に、高山城内をはじめ周辺にあった多くの寺を三原城周辺に移し、各寺の外砦の役割を持たせました。また、引寺された各寺はそれぞれ宗派が異なっており、一揆などの反乱を抑える役割も持たせていたのです。

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駅前ビルに残る本丸中門跡

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さらに、城の山側にはT字形、かぎ形の迷路や小路をつくり、湧原川を境にした西側の館町(武家町)と東町(町屋)に段差をつくる(館町を一段高くし、城の水害を防ぐ)など城下の防衛に総力が注がれています。
このことから三原の町は、築城以来一度も兵火を受けず明治維新を迎えることができています。
三原城の堅固さには明治政府も非常に関心を示し、1876年には、当時の海軍省が海軍鎮守府の候補地として三原城を買い上げたほどで、幻の軍都だったのです。(海軍鎮守府は1883年に呉に設置される)