川越人足がふだん詰めていた待機所です。川越人足は10組に分けられ各組が一つの番宿に詰めました。各番宿には連台5丁が備えてあったと考えられています。
川越は各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組の人足のそれぞれの番宿で50人ほど待機していました。

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「川越人足」
大井川の川越しに従事した人足たちで、15歳以上50歳以下の屈強な男が勤めました。川越人足の数は、江戸時代の元禄年間は150人程度でしたが、その後、増員され、江戸時代の終わりには約650人に達したと考えられています。
当時の大井川は水量も豊富で素人に務まる仕事ではありませんでした。川越人足になるためには12〜13歳頃から見習いとして、弁当や薪、炭を運ぶなど雑用から始めました。15歳以上になると川越しに従事しましたが、最初は川を渡ることもできず、何年も訓練を重ねた後に川庄屋から採用が伝えられました。

文政9年(1826)に大井川の川越しを経験したドイツの医師シーボルトは、急流を楽々と越す川越人足をその手記のなかで「半人半漁の男たち」と評しています。
金屋宿側にも川越人足がおり、互いに往きは客を運びますが、原則として帰りは自分たちだけで越えました。これは川越人足の共存を図ると共に、人命を預かる重要な仕事なので過重労働にならないようにとの配慮があったと考えられています。