この銅像は明治三十八年に建立されたが第二次大戦中に胸像のみ応召され、胸像なきまま放置するに忍びず昭和四十二年中佐の偉勲と徳風を景仰し補修復元した。

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廣瀬中佐は、明治元年五月に大分県竹田町に生まれる。父が高山裁判所長として赴任したため明治十年、高山煥章学校に学び明治十五年小学校を卒業、海軍兵学校に入学、明治二十四年少将に任官、明治二十七、二十八年の日清戦争には軍艦扶桑の航海士として参加する。

明治三十七年、日露開戦に於いて旅順港で同年三月戦死する。
部下、杉野兵曹長の姿を求め「杉野はいずこ杉野・・・・・」と叫びつつ戦死した有様は軍人の鏡として戦前の教科書にとりあげられた。柔道は三十歳で四段、没後講道館より六段を贈られた。