伏見は江戸時代、幕府の直轄領だった。宿場町としても規模が非常に大きく、宇治川・淀川と高瀬川とを中継する川港としても大いに賑わった。
伏見城を廃した幕府は、伏見奉行所を置き、伏見町及び伏見廻り八か村と葭島新田を治めた。その範囲は西奉行所・東奉行所と南は桃陵中学校に至る広大なもので正門は西側にあった。正門の南北には石垣の上に白壁が続き、南北二つの櫓がそびえていたと伝えられる。

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伏見奉行所は、伏見町の司法・行政だけでなく、川船の監督、管轄する農村からの年貢徴収なども担当した。そのため、江戸幕府の遠国奉行としては上席に位置し、旗本よりも大名が任じられることが多かった。慶応三年(1867)六月に二十六代奉行の林忠交(請西藩主、千葉県の大名)が病死した後は空席となり、職務は京都奉行所が管轄した。

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慶応四年(明治元年)正月3・4日の鳥羽伏見の戦いでは会津兵や新選組ら旧幕府側がここを本陣とした。しかし御香宮神社に陣を布いた薩摩兵から砲火を浴びせられ焼失した。
維新後は、明治四年親兵(後の近衛兵)が配備され、次いで工兵第十六大隊が置かれた。