この地はもと鴨川の州であったが寛文十年(1670)に護岸工事のため埋め立て石垣を築き町屋ができて、これを新河原町通りといった。
その後、三条一筋南から四条まで、即ち南北600米、東西50米にわたる地域に人家が建ち並び俗に先斗町と呼ぶようになった。

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正徳二年(1712)に茶屋、旅籠屋両株と茶立の女子を置くことを許され、爾来、花柳の街として繁盛した。
先斗町の呼名は、ここの人家がすべて河原の西側に建ち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたとも、葡萄牙語(PONT)英語の(POINT)の発音によるとも言われる。

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