知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

加藤嘉明

伊予松山城

松山城は松山平野の中央に位置する勝山を中心に築かれた平城で、山頂に本丸が南西の山麓に二之丸や堀と土塁に囲まれた三之丸が配されています。

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松山城の築城は、関ヶ原の戦いでの活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって始められ築城にあわせて勝山の南を流れていた湯山川を付け替え、三之丸と城との周囲に侍町をその外側に町人地を置き、さらに勝山の北側にある御幸寺山の山麓に城を防備するために寺町を置きました。

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加藤嘉明は正木城(伊予郡松前町)から慶長8年10月に新城下に移りました。この頃から松山と呼ばれるようになったと伝えられています。
城の完成は寛永4年に嘉明が会津へ転封された後、蒲生忠知によると伝えられ、忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松平家の居城となりました。

伊予松山城本丸

松山城本丸は城の防衛上最後の砦となる郭で、高さ10メートルを超える高石垣に囲まれ、南北300メートル東西約30〜180メートルという規模を誇っています。

本丸北側には、城の中心である連立式天守の本壇が配置され、南側には大手(正面、表口)である大手門、北側には搦手(背後、裏口)である乾門があります。乾門付近には、乾櫓や野原櫓という城内で最古の櫓が残されています。

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本壇
本丸の北側に位置し、天守、小天守などの城の中枢となる建物が配置されています。

本丸広場より更に8メートル高く築かれ、出入口は一ヵ所に限定されるなど防備は厳重で天守は更に4メートルの高さの石垣の上に構築されています。本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓などで接続されています。

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紫竹門
本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付き高麗門で、本壇北側にあった中仕切門とあわせ搦手を固める重要な門です。
小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名がつけられ、扉の上下は竪格子となっており、そこから外を覗き見る工夫がなされています。

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艮門
艮門と同東続櫓は、本丸の北東に配置された脇戸付きの櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っています。
また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割を担っていたと考えられています。

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松山城の石垣
「登り石垣」の石材には、主に花崗岩が使用され隅部はほとんどが算木積みで、本丸を囲む高石垣は高さ10メートルを超える扇勾配と屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折が特徴です。

加藤嘉明による築城時(慶長七年)の典型的な石垣が残され、その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積です。

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本壇の石垣は北側と南側で異なり、北側は時期は不明であるが打込ハギ布積で、隙間に合わせて加工した間詰石が詰め込まれている特徴がみられ、南側は嘉永年間(1848〜1854)天守などが再建された際に、新しく積み直され、充分に手間をかけた切込ハギの布積で隙間のない整った外観となっている。

加藤嘉明

三河国永良郷賀気村(愛知県)に永禄6年(1563)に生まれ、天正3年(1575)に羽柴秀吉に見出されて羽柴秀勝の小姓となり加藤性を名乗る。

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備考
天正11年(1583)、秀吉と柴田勝家との戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として奮戦して3000石の知行を与えられる。
その後、秀吉の旗下として多数の武功をあげ、文禄4年(1595)、伊予松前6万石に転封した。
秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)、伊予半国20万石に加増される。
慶長7年(1602)正月、松山城の築城を創める。翌年居城を松前から松山に移す。
文禄4年(1595)、から6年間の松前時代と慶長6年(1601)から26年間の松山時代に城主として城下町の整備や重信川・石手川の利水を整え良田を開発し、更に殖産に意を注いで領民の生計安定に努めた。
寛永4年(1627)、65歳の時、陸奥会津40万石に加増転封となる。
寛永8年(1631)、69歳の時、江戸桜田の会津藩邸にて死去。

賤ヶ岳

賤ヶ岳の南麓「大音」「西山」の里は製糸業(生糸)の盛んな地方であった。
琴糸や三味線糸は黄色であるがその染色は昔は梔子(くちなし)の実が使われていた。今もこの地方には庭先や畑地には梔子が植えられているとある。

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賤ヶ岳古戦場
「信長公記」によると賤ヶ岳合戦以前天正元年に浅井朝倉方の賤ヶ岳布陣の記録がある。また、「領家文章」には天正元年に「しつかたけの城」とあり賤ヶ岳合戦以前の賤ヶ岳城が確認できる。

1583年、信長の重臣であった柴田勝家と羽柴秀吉がこの賤ヶ岳を中心として信長の後継者争いをし秀吉が勝利し天下取りを決意した戦いだといわれている。

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賤ヶ岳から奥琵琶湖を望む

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余呉湖

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備考: 秀吉方で功名をあげた兵のうち7人は後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。
     福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
     実際に感状を得て数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様とある。

    それ以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた14人の若手武将が最前線で武功を挙げ
    たと記録されている。
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