知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

北国街道

小諸本陣(北国街道)

これは元、小諸の本陣兼問屋上田屋の建物である。建設年代は十八世紀末から十九世紀初頭と推定されている。

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この二階建ては、問屋場で街道に面し、間口八間、正面に大きな切妻屋根の妻を見せ二階は腕木で持ち出し格子窓を広くとる。当初一階正面は全面開放の縁側で内部は八室が二列に並び、その全面に畳廊下を通した間取りであった。

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二階は九室で部屋割りはあまり変わっていない。別棟正座敷(御殿)を失っているのは惜しいが西隣にあるほぼ同時代薬医門とともに北国街道に残る数少ない構造が立派な本陣建築の一つである。

粂屋(旧脇本陣)

江戸時代、北国街道を通った大名行列が小諸に宿泊する時、お殿様は本陣に泊まり、家老など上級の家臣がこの脇本陣に泊まりました。

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脇本陣は本陣の次に大きな建物で、左側には式台の玄関があり、その奥には座敷があります。また、二階の手すりや看板を下げる「まねき屋根」など、江戸時代旅籠の姿を伝えています。

小諸藩城代家老屋敷跡(鍋蓋城跡)

戦国時代のはじめの1487年に、大井伊賀守光忠により小諸の町にはじめてつくられた鍋蓋城の跡です。その後、小諸が武田氏の支配下になった時に、この鍋蓋城を取り囲むように街道がつくられ、街道沿いに周りの村から人々を移して(「村寄せ」という)城下町の原形ができました。同時に小諸城の原形が懐古園の場所に造られました。

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江戸時代には、この場所は小諸藩の城代家老の屋敷として使われました。城代家老とは、一番位の高い家臣です。お殿様が江戸に居るときには、その代わりに藩を仕切る役目です。石垣で固められた屋敷がまえは、それ自体が小諸城を守る「城郭」の役を果たしていました。
また、この屋敷を囲むように北国街道が作られており、屋敷の石垣は町人地と武家地を隔てる役目もしていました。

北国街道 ほんまち町屋館

江戸時代前期、この場所には街道で運ばれる荷物を中継ぎする問屋場があり、小諸宿の中心でした。この建物は大正時代に建てられた味噌・醤油醸造元の清水屋の店舗で、昔は主屋の奥に醸造や保存のための蔵がいくつもありました。

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2000年に小諸市の施設にする時に、大正時代の主屋と中庭はそのまま活かし、奥の蔵は新しいデザインで建て替え、主屋脇にも修景門をつけました。
主屋は、いかにも大正時代らしい大空間で、表に面したガラス戸、格子、腰壁もこの時代にはモダンなデザインでした。土間には荷物を運ぶためのトロッコの線路がそのまま残され、清水屋が使った醸造の道具や仕込み樽も展示され味噌醤油醸造元の歴史を知ることができます。

旧つたや旅館(北国街道 小諸)

「つたや」が旅籠を始めたのは江戸時代初めの1657年で、屋号は「つたや七左衛門」でした。

ギャラリーつたや

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この建物は大正時代に建てられたもので、大正の雰囲気を伝えるモダンなデザインです。「つたや旅館」は江戸時代から昭和の初めまで商人宿として賑わった宿です。俳人の高濱虚子が滞在したこともあり、各部屋には小説家や書家の書き残した書などが飾られています。

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北国街道 与良館(旧松屋)

江戸時代の漆器家で、第二次大戦後は家具問屋・松屋が営業していました。戦時中、与良町に疎開していた高濱虚子は「小諸雑記」の中で「松屋は客に対してとてもいい感じの店である」と書いています。

小諸市の施設として昔の建物の姿に修復され、敷地全体は「小諸高濱虚子記念公園」、主屋は「北国街道与良館」として、交流やまちづくりの拠点となっています。

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主屋の奥にある蔵は、江戸時代に小諸城の西側にあった銭蔵です。銭蔵は小諸藩の金庫だったので、千両箱を隠していたという石の蓋のついた秘密の地下室があります。
また、敷地の一番奥の小屋は、昭和21年頃につくられた虚子の仕事場「排小屋」を修復したものです。この頃、虚子の主幹していた俳句雑誌「ホトトギス」600号祈念句会が小諸で催されました。
与良町の昔の家はどこも、奥に長く傾斜したゆとりある敷地に主屋、中庭、蔵、離れの順で建物が並び、その周囲には田園風景が広がっています。

この施設は、与良町の伝統的な町屋の形をよく伝え、与良は水の豊かなところなので敷地に水路のある家もあり、高濱虚子は多くの俳句を残しています。虚子の歩いた路は「虚子の散歩道」として保全が進められています。

酢久商店/小山家

小諸の、北国街道沿いにある酢久商店は「山吹味噌」のブランドで全国的に有名な味噌屋で、この建物の奥に大きな工場があります。北国街道に面した土蔵とその奥のご自宅は幕末の建物で、入り口に掲げられている「御味噌」という看板は、たいへん凝った彫刻が施されたものです。

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小山家の屋号は「酢久」もしくは「やま九」と呼ばれ、江戸中期から酢・味噌醤油の醸造を始め、その後関東をはじめ各地から仕入れた畳表、かつお節、茶、塩などを長野県内に卸す問屋業としても成功しました。
小諸藩の御用商人として藩にお金を貸して武士に近い身分を与えられた旧家です。

北国街道(北国脇住還)上田宿

紺屋町
天正11年(1583)、真田昌幸が上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷から紺屋を移して造った町、宝永3年(1706)には、紺屋が十軒あり、のちに上紺屋町と下紺屋町の分かれました。

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柳町
上田城築城後、約15年後の慶長3年(1598)上田城下に北国街道が通ります。参勤交代や佐渡金山の金の通路として、また、庶民の善光寺参りの道として賑わいました。

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原町
真田昌幸が城下町造りを始めた時、真田氏とゆかりの深い原之郷から住民を移住させて造った商人町で海野町と共に、上田城下町で最初に出来たである。

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北国街道

 北国街道長浜宿
 この4枚の写真は午前中に撮影したもの、昼過ぎに行ってみると凄い人が歩いている。

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今庄宿

北陸地方と京都を結ぶ北国街道の宿場町として江戸期に栄えた。
今も面影が残されている。

今庄宿

今庄宿
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