知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

北海道一周の旅

北海道一周旅行を終えて

松前から函館に戻った私は、

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摩周丸を見学した。

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その足で道央自動車道で室蘭に向かった。

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地球岬から樽前山登山口まで、

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そして、支笏湖からオコタンペ湖を経て、

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ウトナイ湖で夕方まで過ごし帰りのフエリーに乗り、私の北海道一周の旅は終わった。

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旅行が終わり今考えていること

一度目の北海道は、研究会の会合が札幌と定山峡温泉で行われた際、小樽を観光したことがある。
二度目の一周旅行では内陸部には行っていない、そして見られなかった景色がある。
それは北海道の冬景色だった。今計画しているのは来る1月に内陸部に行くこと。

すでに飛行機のチケットと一日目のホテルは予約済みとなっている。
まだ時間はあるが、寒さがどの程度のものなのか解らないこともあるが準備は万全を期したい。

テーマは「冬タビ 北の大地」はどうだろうか。

松前藩沖の口奉行所


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松前藩の蝦夷地へ出入りする船改め、積荷、出入りを改め、税役の徴収、役所には奉行、吟味役、吟味下役、小使、足軽、手代等の役人が配置されていた。

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この白洲では、入国者を裸にして調べ刀傷のある者、入れ墨のある者と身元引受人のない者の入国を許さず本州へ出港する船に乗せて帰した。

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積荷改めと税役の徴収は問屋、小宿に遭難船の救助は附船宿に任せ、奉行所はこれを監視するだけであったが商人達からは役人に多くの太義料、袂銭の献金があったといわれている。

松前藩屋敷


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蝦夷地唯一の城下町松前は、幕末時には戸数8000、人工30000を数え、仙台以北では最大の都市といわれ、近江商人を中心として北前船(弁財船)によって日本海沿岸から瀬戸内海方面まで広く経済交流が行われ大いに発展した町であった。

武家屋敷
松前藩の家臣は、寄合、準寄合の重臣から、中書院席、中ノ間席、御先手組席の士分の侍がおり、皆広大な屋敷を構えていた。この武家屋敷は松前藩士籍の最末席の御先手組席(百十石高)家臣の屋敷を再現したものといわれる。

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武家門、武者塀を配した屋敷内には、式台、茶の間、台所、来客の間を配している。

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松前

松前城跡に着いたときはドシャブリ、暫く車中にて待機する。
北陸地方旅行中はよく松前という地名を目にした。

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松前温泉で入湯、

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松前城跡(福山城)

松前家の初代藩主・松前慶広がこの地に築城したのは、1606(慶長11)年のこと。
その後の火災や修築などを経て、十七世藩主・松前崇広は1849(嘉永2)年7月10日、外国船の出没に備え津軽海峡の警備強化を図るため、幕府から築城を命ぜられ、城主大名になる。

5年の歳月をかけ、1854(安政元)年9月に完成した松前福山城は、旧式築城では日本最後のものとなる。
完成した新城は面積約7万7800平方メートルで、本丸、二の丸、三の丸、楼櫓6、城門16、砲台7座を備えていた。

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幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。1868年(明治元年)、蝦夷が島に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日にはもと新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。
松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。

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本丸御門

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しかし、翌1869年に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となり、1871年(明治4年)の廃藩置県の施行により城は明治政府の領有となった。
1875年(明治8年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。

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所在地 北海道松前郡松前町字松城144

立待岬


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18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備の為、ここに台場が築かれたことがある。
また、第二次世界大戦中は要塞地帯法により市民は立ち入りが禁じられていたとある。

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与謝野寛・晶子歌碑

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土方歳三

新撰組副長として鳥羽伏見の戦いの後、新撰組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。

土方歳三最期の地

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1868年10月、蝦夷地に上陸した榎本軍は函館を占拠して新政権を樹立、土方歳三は陸軍奉行並の要職についた。

明治2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本は各地で敗退したが土方が守った二股口だけは最後まで落ちなかった。
同年5月11日、函館も政府軍の手に落ち、土方は函館奪回を目指し50名の兵を率いて一本木の関門を出て函館の市中に向い敢然と切り込んでいったが銃丸に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。

五稜郭跡(特別史跡)


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幕末の函館開港に伴い設置された函館奉行所の防御施設で、函館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。

半月堡
西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁ともいいます。郭内への出入り口を防御するために設置されています。

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稜堡と呼ばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐらされていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の函館奉行所庁舎とその付属建物が建てられました。

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安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。

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恵山岬

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立待岬のつもりでナビをセットしたら恵山岬に着いた。再度、立待岬を検索して、「何だ こんなに近かったのか」

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恵山岬灯台
1890年(明治23)点灯   位置 北緯41度48分55秒 東経141度11分00秒

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函館山

函館山は、火山活動や地殻変動により出現し海流による標砂で亀田半島とつながった陸繋島です。三方が海に囲まれ、標高334メートル周囲9キロとなっており、別名「臥牛山」とも呼ばれています。

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函館山は、道南特有の温暖な気候であることや昭和20年まで約半世紀にわたって一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生育にとっては恵まれた自然環境にあったことから、約600種の植物が生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。

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車で行ったが、「やっぱり函館山は夜だなぁ」

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四季を通じて野鳥が生息し、津軽半島を南下・北上する渡り鳥の休息地として重要な役割を果たしており、約150種が観察される野鳥の宝庫として鳥獣保護区特別保護地区に指定されています。

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