利斎家住宅(登録有形文化財)
織田信長兵乱の時に貝塚に往来したと伝わり、江戸時代には薬種問屋を営む有力町人で、建築時期は17世紀まで遡る可能性があり、離れの洋館は大正13年頃の建築といわれています。

-

現北小学校の敷地は、もとは願泉寺の境内にあたり、明治維新までは卜半役所と呼ばれる政庁が置かれていました。
一向宗の自治都市としての寺内町の時代には、この寺は信仰と政治両面にわたる町の中心でした。江戸時代に入り幕藩体制の下でも、寺のもつ二面性は保持され、貝塚寺内町の地は住職の卜半家の領地とされました。
政庁の表門は旧紀州街道に面していました。

-

旧紀州街道(現府道堺阪南線)

-

寺内町とは、戦国時代に畿内を中心に、寺院を中核として計画的につくられた宗教自治都市です。
貝塚寺内町は、貝塚御坊願泉寺を中心に発達した寺内町です。古くは麻生郷海塚村に属し、もとの集落は紀州街道沿いの低地にあったと推定され、室町時代末期に寺内町として建設されました。
織田信長の時代には、和泉国の一揆衆が結集する場となり、天正5年(1577)に信長軍の攻撃を受けました。
豊臣秀吉の時代には、天正11年(1583)から2年余りは浄土真宗の本山である本願寺が置かれ、その寺内町として発展をとげました。
江戸時代には、願泉寺住職卜半家を領主(地頭)とする諸役免許の地「貝塚卜半寺内」として、様々な商工業が発展しました。