鎌倉時代の中頃、僧忍性が不治患者救済のため、北山(奈良の北の山という意)に宿舎を設けたもので、はじめは、般若寺の東北に建立されたが永禄十年に焼けたため、寛文年間に東大寺・興福寺の堂塔を南に眺められて、不幸な人々の養生にふさわしい今の地へ、鎌倉時代の遺風を受け継いで建てられたものである。
建物は十八の間数のほかに仏間をつけ、裏戸に「北山十八間戸」と縦に刻書がある。
大正十二年三月三日、慈善事業の遺跡として史跡に指定された。
建物は十八の間数のほかに仏間をつけ、裏戸に「北山十八間戸」と縦に刻書がある。
大正十二年三月三日、慈善事業の遺跡として史跡に指定された。