知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

大手門跡

伊予松山城(戸無門)

二ノ丸から本丸へ
黒門口登城道は慶長年間に造られ二ノ丸から本丸への通路であった。

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大手門跡

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中ノ門跡
大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが明治時代に取り壊されました。
この門を設けることで、攻めてきた寄手は門を通りすぎて直進する者と戸無門へ行く者に分かれますが直進した者は乾門下で行き止まりとなります。
太鼓櫓から乾門へ続く石垣は屏風折と呼ばれ石垣が屈折しています。これは寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃できる横矢掛といわれる防衛上重要な構造となっています。

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戸無門
この戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので創建当初から扉を持たなかったものと考えられます。
建築年代は明らかではないが、寛永から正保年間(1624〜1648)の建立と推測されています。また、寛政12年に立て替えられたことを示す棟札が残されています。

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備中松山城

予約していたタクシーの時間まで高梁川周辺を散策し観光センターで地図等を貰い暫し雑談をして情報を仕入れました。

タクシーで鞴峠(ふいごとうげ)まで、ここから歩いて約20分で備中松山城へ。

古くは「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り牛が伏せた姿に似ていることから「臥牛山」と呼ばれている。

「ふいご峠」
備中松山城の御社壇に納められた三振の宝剣をこの場所で作らせ、その為に大きな「ふいご」が設置されていたことから鞴峠との名が付いた。

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多分、「中太鼓丸櫓跡」
かつて御根小屋と天守との伝達手段として使われた太鼓丸櫓、下太鼓丸櫓と中太鼓丸櫓の二つの中継地点を設け、太鼓の合図で連絡を取り合っていた。

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「中太鼓丸櫓跡」からの展望、

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大手門跡
大手門から先には多くの石垣が残っているが、一番目を引くのが大手門の右手にそびえる石垣群、天然の岩盤の上に石垣を築き更に土塀を建てる、

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