近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあり、源八の妻は大石内蔵助良雄の祖母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。
源八の父である三郎左衛門正純も甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。

-

-

備考
近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれ、現存している建物は長屋門の長屋部分で門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていました。
現在は、その内の北端部の一戸と南隣の一戸の一部屋が残されています。この長屋門は、十八世紀以降に建て替えられたものと推察されているが、当時は総長二十一間半(約42.3メートル)の長大な長屋門でした。
城内に残された江戸期の建物は大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門のみであり、疎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲ばせています。