大阪鎮台の設置
明治2年(1869)5月、五稜郭の戦いが終わり戊辰の役が終結します。兵部大輔に任じられた大村益次郎は8月中旬京阪地区に出張し、新政府の基盤となる軍事施設を精力的に定めていきます。
大阪城内には、陸軍施設(大阪鎮台、兵学校、兵器工場)を設置するよう命じ、早速大阪鎮台が設置されます。
この施設が、後に起こる西南の役において、鹿児島氏族の反乱を鎮圧する根拠地となります。
鎮台は明治21年の兵制改革により第四師団と改称されます。

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兵学寮(陸海軍の士官学)の開校
明治2年11月に客死した大村益次郎の遺志を継ぎ、明治3年4月、大阪城内の二の丸京橋口内側に兵学寮青年学舎(陸海軍の士官学校)が開校されます。

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造兵司(後の大阪砲兵工廠)の設置
陸軍直属の兵器製造工場で、大砲などの重兵器、爆弾などを造る施設です。大阪城城内の青屋口付近に設置されました。
西南戦争勃発
明治10年2月、西南戦争が勃発すると大阪鎮台兵が初めて戦闘に参加します。前線基地となったこの地に負傷兵が次々と運び込まれてきます。
大阪陸軍臨時病院を設立し、負傷兵の治療をおこないます。同年3月31日、明治天皇が内閣顧問官である木戸孝允を従えて訪れ入院患者を見舞いました。