知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

天守閣

月見櫓(福山城)

月見櫓
月見櫓はもと京都伏見城内にあったものを移築したものです。本来は着見櫓のことです。
追手側も入江方面展望できる南西隅に築かれ、藩主等の到着を見極める役割をなしていました。1階南面に石落としがあり、古い建築様式で、明治初年に取り壊されたが昭和41年に天守閣とともに外観復元されました。

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天守閣
福山城の城郭は南面し、天守閣は本丸の北隅に位置している。五重六階地下一階、別に二重三階の付櫓をもつ複合天守で、外見は六重のように見えます。

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一重目の南北面と二重目の東西面は比翼入母屋、その他の各層には千鳥破風や唐破風を設けている。
城号は敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城といい、別名を葦陽城ともいう。

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大阪城天守閣復興

天守閣の復興が議会で可決
昭和3年11月、昭和天皇即位の式典が行われるにあたり大阪市の記念事業として、寛文5年(1665)1月の落雷で焼失して以来、約270年間失っていた天守閣の復興が大阪市議会に提案され満場一致で可決しました。

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昭和3年から募集した寄付金はわずか半年で目標額の150万円に達しましたが、大阪城内は明治以降、陸軍の軍用地になっており、あらゆる施設が建っていたため一般の市民や観光客が自由に出入りすることは困難が予想されました。
そのため陸軍からいくつかの条件が出され、それを認めることで再建が進められました。その条件とは、募金額の6割を新庁舎の新築に充て残りの4割を天守閣再建と大阪城公園の整備に充てること。また、いざという時は天守閣を軍部に明け渡すということでした。

新築された第四師団司令部の庁舎は、戦後、進駐軍の本部、大阪市警察本部と移り変わり、大阪市立博物館として2002年3月まで利用されていました。
豊臣期の天守閣の復興が望まれ、数少ない資料から現在の天守閣が設計されました。

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松江の城

1607年から5年の歳月を費やして堀尾吉晴によって築城された。
松江城は千鳥城ともいい、堀尾氏、京極氏、松平氏によって出雲国を領した。

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寄木柱
肥え松の一本柱の外側に板を揃えて寄せ合わせ、これを鉄輪で締めて太い柱が作られている。この柱の方が力学的に強く苦心の力作である。

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桐の階段
板の厚さ10センチ、階段の幅1.6メートル、階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を用いた。

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望楼からの展望

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