知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

小堀遠州

大坂城千貫櫓

大坂城の大手口を守る重要な隅櫓である千貫櫓は西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができました。

織田信長が大坂を領していた頃も千貫櫓はありました。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった石山(大坂)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓から横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士達の間で噂されたという逸話が残っているという。

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備考 創建は徳川幕府による大坂城再建工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理の際、墨書で 「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかっています。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物でいずれも工事責任者は小堀遠州である。
豊臣秀吉築城の大坂城にも千貫櫓はありました。

小堀遠州作庭園(頼久寺)

天柱山 安国頼久禅寺
臨済宗永源寺派に属し、足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一寺である。境内には寺号になった中興の開基松山城主上野頼久、戦国期織田信長の中国制覇と毛利一族の中央進出戦いである備中兵乱で天正三年(1575)悲運の死をとげた備中松山城主三村元親、一子勝法師丸等の墓がある。

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小堀遠州
天正七年(1579)、近江国小堀村生まれる。幼名を作助といい、長じて政一と称した。父の逝去後、松山城を預かり備中の国政を司る。
茶道、建築、造庭の巨匠として名を馳せ、駿府城普請奉行を務め従五位下遠江守に叙任され、以後遠江にちなんで遠州と通称される。
備中松山城を再建し、他に名古屋城天守、後陽成院御所造営等の作事奉行を務める。
幼少の頃から茶道に励み、宗甫、孤篷庵と号し「きれいさび」を確立し後世に影響を与えた。

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この庭園は小堀遠州の作庭で、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。

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鶴島は石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。
このような築庭様式は桃山から江戸初期に好まれたもので現在まで旧態のまま保存されている。

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       頼むこと 久しき寺の 林泉に なびくいみじき 秋の霧かな
                                        与謝野晶子

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滋賀院庭園(滋賀院門跡)

滋賀院門跡の沿革
元和元年(1615)天海大僧正が後陽成上皇から京都御所の高閣を賜り移築され明暦元年(1655)後水尾上皇より滋賀院の号を賜った。

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境域は約1万平方米の敷地に内仏殿・宸殿・二階書院・庫裏・台所と御成門・通用門さらに6棟の土蔵からなる。

石垣(穴太積み)の上に土塀がめぐらされ、天台座主の後座所として地元では滋賀院御殿と呼んでいる。

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内仏殿から琵琶湖を望む

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三代将軍家光公の命により南北に池泉鑑賞式に作庭されている。
特徴は、蓬莱山形式を用い、左側に亀島を右側の滝に巨石で鶴石組をなし、正面を蓬莱山となし池中央には豪華な切石で橋を架けて細長い池庭を引き締めている。

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南北にある船着石は、硯石の手法をとり切石橋と共に江戸初期の作風を表している。
作庭は小堀遠州と伝えられ、二階書院から眺める庭園は琵琶湖を借景としており蹴鞠の庭と呼ばれる。

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柴田氏庭園

江戸時代前期、敦賀の豪農 柴田権右衛門の築山廻遊式林泉庭園、
野坂山を借景した小堀遠州の作庭と伝えられている。

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