江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋から約80キロの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊して小田原に到着します。

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町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためと云われ、当時は重臣屋敷が並んでいました。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていました。

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東は徒歩渡り(10月から3月の間は橋が架けられていた)酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、
又、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊で利用した本陣4軒・脇本陣4軒の8軒という数は東海道随一を誇ります。
小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなっていました。中でも小田原宿の中心であったのが宮前町と本町でした。ここには、本陣、脇本陣だけでなく旅籠の多くが集中していました。