「天守」とは、城の象徴ともいえる建物で、城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代迄は「殿主」「殿守」などと記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからと云われています。

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江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っている。
元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年の廃城・解体までその姿を保ちました。

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現在の天守閣は、昭和35年に市制20周年の記念行事として鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。
平成28年には、耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われ、天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。