知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

山岡鉄舟

八年庵(五個荘近江商人屋敷)

八年庵は、豪商塚本家を守り、晩年は女学校創始者として女子教育に情熱を注いだ塚本さと(1843〜1928)の二男・二代目塚本源三郎(1866〜1939)が明治13年に古屋を購入して移築し、既存の土蔵を合わせた築200年以上の邸宅で、塚本家の理念を表す「質素倹約と勤勉」そのものの落ち着いた佇まいと文人好みの簡素な山水庭が美しく敷地面積は約620坪、建物面積は約288坪である。


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文化人としても知られる塚本源三郎は、書家の雅号・八年(やとせ)から同邸を「八年庵(はちねんあん)」と称し、同庵を訪れた野村文挙、山元春挙、山岡鉄舟らの作品をはじめ、塚本家と交流のあった勝海舟、福沢諭吉らの書簡、屏風、掛け軸などが保管されている。

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山岡鉄舟

山岡鉄舟、名は高歩、通称鉄太郎、幕末明治の政治家、禅に通じ剣をを極め、書を能くした。
陣屋の松をみて、

       「降雪と
         力くらべや
            松の枝」  亀半  と詠んだ。

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弘化二年(1845)飛騨郡代として着任した父 小野朝右衛門 母 磯について高山陣屋へ入った。書は高山の書家岩佐一亭に教えられ十五歳で弘法大師流入木道の伝統を継承した。
剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学び、のち一刀流正伝を継ぎ、無刀流の一派を開いた。
禅は十三歳頃に初め国・漢学 絵画等も高山在住時代の約八年間に学ぶなど人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものと考えられている。

父母死去後、江戸に帰り、のちに山岡家の養子となった。勝海舟や義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍する。慶応四年(1868)三月、西郷隆盛と会見して、江戸を戦火から救い徳川家に安泰を導いた。
維新後は明治天皇の侍従をつとめ宮内小輔を拝命する。
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