知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

山田方谷

山田 方谷

山田 方谷(文化2年2月21日(1805年) 〜明治10年(1877年))は、幕末期の儒家・陽明学者

山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。
その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。

-


方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。

理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。

擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。

この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。(ウィキペディアから)


方谷は、岡山の人々の依頼で、寛文10年(1670年)に池田光政が設立し、明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874年)に再興した。

旧順正女学校

明治14年(1881)に、のちの順正女学校となる私立裁縫所が福西志計子によって設立されました。
「女性に自由な教育」を理念にした順正女学校は、裁縫のほか文学科を設け神戸などの先進校から女性教師を招くなどして充実した教育を行い、高梁での女性の地位向上や、女子教育に大きく貢献しました。

-

福西志計子は備中松山城下御前町で松山藩士・福西伊織の家に生まれ、隣家の山田方谷に漢学を学びました。
岡山裁縫伝習所で裁縫を習ったあと、明治9年(1876)に高梁小学校付属裁縫所の教師に。明治14年(1881)にのちの順正女学校となる私立裁縫所を設立。女性教育の道を拓きました。
洋服が流行しはじめると上京して洋服の仕立てや選択の仕方を学んできて直接教え、毛糸の編み物や造花などもいち早く教えるなど、「人の見えない所に働く者となれ」が信条だったとある。

-
記事検索
おきてがみ
web拍手
Archives
メール
  • ライブドアブログ