岐阜城の歴史
13世紀のはじめ(建仁のころ)鎌倉幕府の政所令二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城の初めで、二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。その一門は関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。美濃の場合、関の新長谷寺を建てたのも二階堂氏です。
その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。

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戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、再び城を築き城下町もできました。大永5年(1525)美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斉藤氏の実権は長井氏に移りました。
稲葉山城も斉藤氏の一族が居城していましたが長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉は斎藤道三の父親といわれ、大永から享禄年間(1521〜32)の資料に名前がでてきます。

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岐阜城の由来
鎌倉時代の建仁元年(1201)、幕府の執事二階堂山城守行政が軍事目的のためにここに
初めて砦を築いたと伝えられているが、稲葉山城として日本史に大きく登場してくるのは斎藤道三以後のことです。
斎藤道三は天文八年(1539)二月に稲葉山城を修築して入場し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主となりました。
永禄十年(1567)織田信長は斉藤龍興と戦って稲葉山城を落とし、九月新城主として入城しました。

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信長は稲葉山城を岐阜城と改め、楽市場を保護し、「天下布武」の朱印を用いるなど天下統一の本拠地としました。

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