知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

島崎藤村

「椰子の実」詩碑

島崎藤村が小諸に赴いた頃の漂泊の想いと人生旅情の詩境をうたった藤村最後の詩集「落梅集」に収められている詩

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       名も知らぬ 遠き島より
       流れ寄る 椰子の実一つ

       故郷の岸を 離れて
       汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

       旧(もと)の木は 生いや茂れる
       枝はなお 影をやなせる

       われもまた 渚(なぎさ)を枕
       孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
       − − − − − − − − − − − 
       実をとりて 胸にあつれば
       新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

       海の日の 沈むを見れば
       激(たぎり)落つ 異郷の涙

       思いやる 八重の汐々(しおじお)
       いずれの日にか 国に帰らん

藤村と小諸

島崎藤村は明治33年4月初旬、旧師木村熊二の経営する小諸義塾に英語・国語の教師として赴任し、巌本善治の媒酌により、函館の秦冬子と結婚し小諸町馬場裏に新家庭をもった。

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明治33年4月、「旅情」(小諸なる古城のほとり)を雑誌「明星」創刊号に発表
       5月、長女緑が生まれる
明治34年8月、「落梅集」を刊行、 翌年3月、次女孝子生まれる。11月、「旧主人」「藁草履」を、以
          後、「爺」「老嬢」「水彩画家」「椰子の葉陰」等を発表
明治37年4月、三女縫子生まれる。
明治38年4月、小諸義塾を退職し7年間にわたる小諸生活に別れを告げ家族と上京する。
明治39年3月、「破戒」を自主出版する。

惜別の歌

この歌は島崎藤村の詩に藤江英輔が曲を付した。藤村の原詩は明治30年に刊行され、「若葉集」(春陽堂)所収の「高楼」である。
その翌年、藤村は二度にわたって、小諸に恩師木村熊二を尋ね、ともに懐古園周辺を逍遙した時に、この詩想したといわれる。
明治32年、藤村は小諸義塾に赴任するが、その翌年雑誌「明星」(与謝野鉄幹主宰)に発表した。「小諸なる古城のほとり」(原題「旅情」)とともに小諸郷愁の詩である。

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藤江英輔がこの詩に作曲したのは、昭和19年暮れ、太平洋戦争の末期である。敗戦間近に学徒動員され兵器生産に従事していた同じ工場で働く学友たちに日々召集令状が届く、再会のかなわぬ遠き別れが次から次へと続く、その言葉に盡きせぬ思いを、藤江はこの詩に託して曲を付した。それはいつしか出陣学徒を送る歌となった。

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そして戦後、この歌が別れを惜しむ叙情歌として一般化した時、問題があった「高楼」を「惜別の歌」とし、「かなしむなかれわがあねよ」(原詩)を「わが友よ」に歌い替えていたことである。
幸いだったのは藤村の著作権継承者の一人である島崎蓊助と藤江は藤村全集の編集を通して面識があり、蓊助はこの編集を許諾した。以後この歌は中央大学の「学生歌」として歌い継がれ、また多くの人々に愛唱されるようになった。

小諸義塾記念館

小諸義塾は明治28年11月、幕臣でありながら維新後アメリカに渡り、13年間の留学で西欧の新しい文化とキリスト教の信仰を身につけた木村熊二が小諸の青年小山太郎らの熱意ある要請にこたえて誕生させた私塾であります。
校舎群は信越線が開通して間もない明治29年、小諸駅の南側に当記念館を本館として建設されました。

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当初は高等小学校を卒業した青年達が、塾長木村熊二の卓越した見識を慕って集まった家塾的な塾でしたが、その後小諸町の積極的な助成や木村の理想に深い共感を寄せた勇士達の支援により、明治32年には県の認可を得て私立中学へと発展してきました。
しかし、日清・日露の戦いを契機として中央集権的な学校制度が整えられるにつれ自由な教育の枠は狭まり、本義塾の教育もついに、13年の歴史をもって閉じざるを得なくなったのであります。

−個性にみちた教師たち−

島崎藤村(1872〜1943)
明治学院本科卒業後、明治32年4月旧師木村熊二の招きにより英語・国語の教師として28歳で赴任する。同年、妻、冬と結婚、小諸町馬場裏に住む。
教師の傍ら明治34年に第四詩集「落梅集」を刊行、その後自然主義文学に転じ「旧主人・薬草履・爺・老婆・水彩画家」などを次々発表する。
小諸義塾着任以来小諸の風土や小諸義塾の生活を題材にした「千曲川スケッチ」は当時の小諸の様子を生き生きと今日に伝えている。

三宅克己(1874〜1954)
明治32年丸山晩霞にひかれて来諸、図画教師として着任する。明治大正にかけての水彩画の先駆者。丸山晩霞とも親交があり、義塾において島崎藤村とは絵画や文学の上でのよき友であった。

丸山晩霞(1867〜1942)
小県郡袮津村の出身、養蚕農家の次男として生まれる。18歳で上京、水彩画を学び明治32年欧米に渡る。明治35年、三宅克己の後任として義塾教師となる。日本水彩画研究所の開設に尽力する。水彩画家小山周次は塾生以来の弟子である。

鮫島晋(1852〜1917)
東京大学物理学科第一期卒業、東京物理学校創立者の一人である。明治28年小諸義塾の教師となり数学・物理・科学などを教える。ぼうようとして物事に頓着しない性格で閉塾後も長く塾生に愛され、義塾の最後まで深いかかわりを持った教師である。
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