戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもち、周囲には自治と自衛のため濠がめぐらされていた。濠の間には、大小13の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状にのびていた。
樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方で、門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があったといわれるが、公園一角に現存する地蔵堂は当時のなごりである。少し東方の平野川に「樋之尻橋」の名がとどめられている。

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大坂夏の陣の元和元年(1615)5月7日、徳川家康の樋之尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛け大坂城へ引き揚げた。
予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外した時に地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説があり、現在全興寺に祀られている首地蔵は、この時の爆発で吹き飛んできた樋之尻地蔵の首と伝えられている。

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