真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、現在でも「御屋敷」と呼ばれている。中世豪族の居館のほぼ完全な形で保存されており、館跡の四方を囲んで築かれた土塁は、周囲520メートル余りあり外周には堀が巡っていたと推定されている。
北面は大沢川が天然の堀となって現在も残っている。土塁の南面に大手門、北面に搦手門があり、南東の角にも小規模な門があったとされている。

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西曲輪跡

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この屋敷跡は西方に開いた本原扇状地の奥に位置し、真田氏城跡郡がこの扇状跡を取り囲んで築かれたことからも、堅固な立地を考えて居館としていたことがわかる。
土塁の内側は、主に二段の曲輪からなり、東側上段の曲輪には真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太神社が祀られている。
西側下段の曲輪には、その北西隅に厩と称される約10メートル四方に区画された土塁が見られる。

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真田氏の先祖は、応永7年(1400)9月の大塔合戦の様子を記した「大塔物語」に書かれている「実田」が真田氏であり、真田地域を本拠地として、横尾・曲尾と並び立つ一地士であったと考えられています。
真田氏は平安時代から東信地方に栄えていた滋野三家の中心的存在であった海野氏の一族で、戦国時代に活躍した真田幸隆は海野氏の棟梁の娘の子であったなど諸説がある。
天文10年(1541)、武田信虎が、しかけた「海野平の合戦」で、海野氏が敗れると真田幸隆も上州へ逃れました。天文15年頃、武田信玄の家臣となり、「信濃先方衆」の旗頭として活躍し、また、信玄の命を受け、上野(群馬県)の北部を攻略、その後、岩櫃城を拠点とし、天正8年(1580)には、その子昌幸が沼田城を攻略、真田氏は吾妻郡から利根郡沼田までの群馬県北部に勢力を拡大した。