徳川家康が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月、同年10月には田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。
吉政は矢作川に初めて橋を架け、東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で岡崎はその典型でした。これが二十七曲りで、しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。

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現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政九年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。
御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、御茶壺、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重に挨拶したという。