知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

徳川吉宗

岡山の時鐘堂

岡山の時鐘堂は、江戸時代正徳二年(1712)五代藩主徳川吉宗のとき紀州藩によって設置された。
鐘楼は約6メートル四方の二階建てで、二階の大梁に梵鐘が吊り下げられている。この鐘は藩士の登城や城下に時刻を知らせるもので、二人の番人によって管理され刻限ごとにつき鳴らされた。

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当時は、本町付近にも時鐘屋敷と呼ばれた鐘つき施設があり、ここでも時の鐘がつき鳴らされたと伝えられ、時鐘屋敷は明治以降も時を知らせ続けていたが大正10年の時報廃止と共にその役目をおえた。

時鐘堂の梵鐘は、元和元年(1615)の大坂夏の陣の際に豊臣方が使用した青銅製の大筒を徳川方が捕獲し、紀州藩が保管していたものを、のちに粉河の鋳物師に命じて梵鐘に改鋳させたと伝えられる。

徳川吉宗生誕の地

徳川吉宗は貞享元年(1684)十月、城下吹上邸で生まれたとされている。

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父は紀州徳川家二代藩主の徳川光貞で母はその側室でお由利である。
元禄十年(1697)四月、葛野藩(現福井県朝日町)三万石の大名に取り立てられ、宝永二年(1705)二人の兄の相次ぐ死によって五代藩主となる。

その後、享保元年(1716)八代将軍に襲職し、享保の改革を進める。
幕府支配体制の強化を図り、「徳川中興の英主」といわれた。

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徳川吉宗

貞享元年(1684年)10月21日、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。
幼名 「源六」 「新之介」   元服して「頼方(よりまさ)」と改める

元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡3万石を賜り葛野藩主となる。
元禄13年(1700年)、越前丹生に向かう。
葛野藩は和歌山藩の支藩であるため、実際には家臣を送って統治するだけで頼方は和歌山城下に留まっていたと言われているが、

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宝永2年(1705年)、第5代紀州藩主となり「吉宗」と改める。

享保元年(1716年)、八代将軍となる。
享保の改革、文武奨励、洋書の一部輸入許可、法令整備、新田開発等を推進、大奥の整備、目安箱の設置、米価対策等、幕府中興の英主といわれ功績は高く評価された。

一方、増税政策によって農民の生活は窮乏し百姓一揆の頻発を招き、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため経済や文化は停滞したといわれる。

延享二年(1745年)、61歳にて将軍職を退き長男家重が九代将軍となる。
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